May 212005
写生大会大きな紙に夏をかく
ともたけりつ子
作者、十代の句。屈託がなく、羨ましいほどに瑞々しい句だ。なによりも「大きな紙」が良いし、描く対象を具体的に示さず、「夏をかく」としたところに好感を持った。そうなのだ、こういうときには何を描くかはさして問題ではなく、戸外に出て絵筆を握ったことに第一の喜びがあるのだ。「夏」とはいっても炎天下ではなく、ちょうどいまごろの季節だろう。はつなつの風も心地よく、作者は大きな紙をひろげて、清新の意気に溢れている。描かれてゆくのも、きっと大きな夏であるに違いない。思い起こせば、私が子供だった頃の画用紙は、とても小さいものだった(紙質もお粗末、おまけに絵の具も劣悪)。それでもA4判くらいの大きさはあったと思うが、なんだか小さい紙に小さくチマチマした絵ばかりを描いていたような記憶がある。すべてを紙のせいにしてはいけないけれど、伸びやかな絵を描くためには、やはり大きな紙が必要だ。私の世代から風景画家が出ていないのも、やはりあの小さな紙のせいではないかと疑ってきた。むろん、絵の上手い者は他の世代と同じくらいいたはずなのだが、われらが世代の絵得意人は、多くイラストレーターやらデザイナーやら、漫画家やらになっている。画家になっていても抽象的な志向が強く、おおらかでオーソドックスな王道を歩んだ者は皆無に近いのではなかろうか。作者の育った環境を、あらためて羨望する。『風の中の私』(2005)所収。(清水哲男)
October 162005
忙しなく秋刀魚食べ了へひとりかな
ともたけりつ子
季語は「秋刀魚」で秋。句集の内容から推して、作者は若い独身女性のようだ。仕事を持ち、ひとり暮らしをしている。仕事帰りに、初物の「秋刀魚」をもとめてきたのだろう。せっかくの季節の物だから、ちゃんと大根おろしを添え、柚子かレモンの汁を滴らせたにちがいない。だが、いざ食べる段になると、季節感をじっくり味わうというのでもなく、いつものように「忙(せわ)しなく」食べ了(お)えてしまった。もはや習い性となってしまったそんな食べ方に、つくづくと「ひとり」を感じさせられている。私の独身時代を思い起こしてみても、似たようなものだった。とにかく「食べておかなければ」という意識が強く、旬の物であれ何であれ、そそくさと食べる癖がついてしまうのだ。言うならば、ちょっと中腰のままで食べる感じである。「秋刀魚の歌」の佐藤春夫みたいに色模様もないので、「男ありて/今日の夕餉に/ひとりさんまを食ひて/思ひにふけると」なんて情趣は湧いてこない。句に戻れば、だから作者の「ひとりかな」という表現は、寂寥感を押し出して言っているのではなく、一抹の寂しさを伴ってはいるが、その内実は「苦笑」に近いと思う。「ひとり」の自分を客観視して詠んでいるところが、掲句のポイントである。『風の中の私』(2005)所収。(清水哲男)
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