修学旅行の季節。東京駅などで一団をよく見かけるが,先生には大変な行事でしょうね。




2005ソスN5ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2252005

 煌々と夏場所終りまた老ゆる

                           秋元不死男

語は「夏場所(五月場所)」。いまは六場所制だが、五月場所は初場所と並んで歴史が古い。作者は、毎年この場所を楽しみにしていたのだろう。千秋楽、館内「煌々(こうこう)」たるうちに優勝力士の表彰式も終わり、立ち上がって帰る前に、あらためて場内を見回して余韻を噛みしめている。充実した場所に大いに満足はしているのだが、それだけにもう来年まで見られないのかと思うと、一抹の寂寥感がわいてくる。そんな感情にかられるのもまた相撲見物の楽しみの一つではあるものの、一年に一度の夏場所ゆえ、ふっと我が身の年齢に思いが及んだりする。また一つ、年を取った……。あと何度くらい、ここで夏場所を楽しめるだろうか。若いうちには思いもしなかった「老い」の意識が、遮りようもなく脳裡をかすめたというのだ。まだ大相撲人気が沸騰していたころの句だから、この寂寥感は無理なく当時の読者の共感を呼んだにちがいない。比べると、昨今の相撲にはこうした感情が入りにくくなったような気がする。それは何も朝青龍などの外国人力士が強いからというのではなく、相撲そのものの内容が、昔とはすっかり変わってしまったせいではないのかと愚考する。いちばん変わったのは、勝負に至るスピードだろう。行司がついていけないほどのスピーデイな相撲は、よほどの玄人でないかぎり、見ていてもよくわからない。わからなくては、感情移入の隙もない。格段の技術の進歩が、かえって人気を落としてしまったというのが、ド素人の私の解釈である。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2152005

 写生大会大きな紙に夏をかく

                           ともたけりつ子

者、十代の句。屈託がなく、羨ましいほどに瑞々しい句だ。なによりも「大きな紙」が良いし、描く対象を具体的に示さず、「夏をかく」としたところに好感を持った。そうなのだ、こういうときには何を描くかはさして問題ではなく、戸外に出て絵筆を握ったことに第一の喜びがあるのだ。「夏」とはいっても炎天下ではなく、ちょうどいまごろの季節だろう。はつなつの風も心地よく、作者は大きな紙をひろげて、清新の意気に溢れている。描かれてゆくのも、きっと大きな夏であるに違いない。思い起こせば、私が子供だった頃の画用紙は、とても小さいものだった(紙質もお粗末、おまけに絵の具も劣悪)。それでもA4判くらいの大きさはあったと思うが、なんだか小さい紙に小さくチマチマした絵ばかりを描いていたような記憶がある。すべてを紙のせいにしてはいけないけれど、伸びやかな絵を描くためには、やはり大きな紙が必要だ。私の世代から風景画家が出ていないのも、やはりあの小さな紙のせいではないかと疑ってきた。むろん、絵の上手い者は他の世代と同じくらいいたはずなのだが、われらが世代の絵得意人は、多くイラストレーターやらデザイナーやら、漫画家やらになっている。画家になっていても抽象的な志向が強く、おおらかでオーソドックスな王道を歩んだ者は皆無に近いのではなかろうか。作者の育った環境を、あらためて羨望する。『風の中の私』(2005)所収。(清水哲男)


May 2052005

 信号をまつまのけんか柿若葉

                           伊藤無迅

語は「柿若葉」で夏。着眼点の良い句だ。まずは、シチュエーションが可笑しい。そのへんに柿の木があるくらいだから、そう大きくはない横断歩道だろう。信号を待つ人の数もまばらだ。そこへ「けんか」をしながら歩いてきた二人がさしかかり、赤信号なので足は止まったのだが、口喧嘩は止まらない。お互いに真っ赤な顔で言い争いつつも、ちらちらと信号に目をやったりしている。激した感情は前へ前へと突っ走っているのに、身体は逆に足止めをくっているのだ。その心と身体の矛盾した様子は、傍らにいる作者のような第三者からすると、とても滑稽に見えたにちがいない。しかも、周辺には柿の木があり、若葉が陽光を受けて美しく輝いている。こんなに美しくて平和な雰囲気のなかで、なにも選りに選って喧嘩をしなくてもよさそうなものを……。と、第三者ならば誰しも思うのだが、しかし当人たちにはそうはいかないところが、人間の面白さだと言うべきか。二人の目に信号は入っても、柿の木には気がついてもいなさそうである。口喧嘩を周囲の人たちに聞かれていることにすら頓着していないのだから、風景なんぞはまったくの関心外にあるのだ。すなわち私たちは、平常心にあるときは美しい自然に心を溶け込ませられるが、激したり鬱屈したりしていると、それはとうてい望めない存在であるということなのだろう。哀れな話だが、仕方がない。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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