エクアドルの靴磨き少年。後景は学生らの政治集会。半世紀前のどこかの国にそっくり。




2005ソスN5ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2652005

 雨霽れて別れは侘し鮎の歌

                           中村真一郎

語は「鮎」で夏。「霽れて」は「はれて」。作者は小説家。俳句的には「侘し」に稚さを感じないでもないが、リリカルな情景を想像させる佳句だ。実はこの句は、詩人・立原道造の追悼句として詠まれている。詩人が二十四歳で世を去ったのは1939年(昭和十四年)3月のことであり、「鮎」の季節ではない。が、句はその年の夏に、中村ら詩人と親しかった数人の後輩が集まった席での吟ということで、追悼時点での季語を詠み込んでいるわけだ。このとき、作者二十一歳。後年に書かれた自註があるので、紹介しておく。「『雨霽れて』は実景だろう。高原の追分村の夏の雨の通りすぎたあとの爽やかさは、格別のものがある。そこでその気持のいい空気のなかに恋人たちが散歩にでる。というところから、私の小説風の空想がはじまる。そのまだ幼い恋人たちは今日が別れの日なのである。そこでふたりは村外れの、昔の北国街道と中仙道との道が二つに分れる、その名も『分去れ(わかされ)』の馬頭観音像のあたりまて行って、別れを惜しむ。これは宛然、道造さんがフランス中世の歌物語『オーカッサンとニコレット』などを模して書いた小説『鮎の歌』の世界である。/これだけの内容をこめ、特に道造さんの有名な小説の表題も詠みいれて、追悼の意を表したわけである」。金子兜太編『俳句(日本の名随筆・別巻25)』(1993・作品社)所載。(清水哲男)


May 2552005

 こひびとを待ちあぐむらし闘魚の辺

                           日野草城

語は「闘魚(とうぎょ)」で夏、「熱帯魚」に分類。闘魚とは物騒な名前だが、その名の通りに闘争本能が極めて強い。同じ水槽に雄を二匹放つと、どちらかが死ぬまで闘いつづけるという。赤や青の色彩が鮮やかであるだけに、余計に凄みが感じられる。そんな闘魚が飼われている水槽の前で、作者は女性が人待ち顔でいるのを目撃した。おそらく「こひびと」を待っているのだろう。相当に待ちくたびれたらしく、もはや華麗なる闘魚も眼中に無し。イライラした顔で、早く来ないかとあちこち見やっている。二人が「闘魚の辺」を待ち合わせ場所に選んだのは、どちらかが多少遅れても退屈しないですむということからに違いない。が、ものには限度というものがある。もうしばらくすると、彼女自身がそれこそ闘魚と化してしまうかも……。というのは半分冗談だが、しかしそれに近い滑稽味を含んだ句だ。実際、相手が「こひびと」であるなしに関わらず、待ち合わせ場所の選択は難しい。とくに初対面の人とは大変で、編集者のころにはけっこう苦労した。ある人が渋谷のハチ公の銅像前ならわかるだろうと約束し、さらにわかりやすく、ハチ公の鼻に手をかけて待っているからと念押しした。ところが、約束の日時にハチ公の前に出てビックリ。鼻に手をやろうにも、高すぎてとうてい届かない。仕方がないので、相手が現われるまで鼻めがけてぴょんぴょん飛び上がりつづけた。……か、どうかまでは聞き漏らしたけれど。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 2452005

 自由が丘の空を載せゆく夏帽子

                           山田みづえ

京都目黒区自由が丘。洒落たショッピング街と山の手らしい閑静な住宅街とが共存する街。友人が長らく住んでいたので、二十代のころからちょくちょく出かけていた。どことなく、避暑地の軽井沢に似た雰囲気のある街だ。そんな自由が丘の坂道を、たとえば白い夏帽子をかぶった少女が歩いてゆく図だろうか。「空を載せゆく」とは、いかにも健やかでのびのびとした少女を思わせて微笑ましい。しかも、その空は「自由が丘」の空なのだ。実際に現地を知らなくても、「自由」の響きからくるおおらかさによって、作者の捉えた世界への想像はつくだろう。軽い句だが、上手いものである。自由が丘と聞いて、戦後につけられた地名と思う人もいるようだが、そうではない。「自由ヶ丘」と表記していたが、昭和の初期からの地名である。発端となったのは、自由主義を旗印に手塚岸衛がこの地に昭和二年に開校した「自由ヶ丘学園」だ。試験もなく通信簿もないというまさに自由な学園は、残念なことに昭和の大恐慌で資金繰りがうまくいかなくなり、あえなく閉校してしまったという。が、手塚の理想主義は当時の村長や在住文化人らの熱い支持を受け、地名として残され定着したのだから、以て瞑すべし。戦時中には「自由トハ、ケシカラン」と当局からにらまれたこともあったらしいが、住民たちが守り通した。そうした独特の気風が、現在でもこの街に生きているような気がする。その「空」なのだから、夏帽子もどこか誇らしげである。ちなみに「自由ヶ丘」が「自由が丘」と表記変更されたのは、昭和四十年(1965年)のことであった。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)




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