aq句

June 0262005

 なんとなく筍にある前後ろ

                           早野和子

語は「筍(たけのこ)」で夏。俳句ならではの、とぼけた味わい。こういう句を、俳諧味があると言うのかしらん。おっしゃる通りに、その気で見ると、たしかに「前後ろ」があるような気がする。それがどうしたというものではないけれど、しかし、そのように見えてしまうこと自体は、人の認識についての興味深い問題をはらんでいると思った。筍に前後ろがあると感じるのは、実際に前後ろのある他の事物からの類推だろう。例えば筍の皮を衣服と見立てれば、襟元のように見えるほうが前であるし、筍を人体と思いなせば、平らなほうが背中に見えるので後ろということになる。むろん、筍に前も後ろもないことはわかっているのだが、私たちは日頃、ついそれがあるように見ているのが普通なのではあるまいか。そんな気がする。だとすれば、そのように見てしまうのは何故なのだろうか。おそらくそれは、私たちがそなえている秩序感覚のようなものに他を合わせたいからである。簡単に言うと、人は感性のいわば引き出しを持っており、見るもの聞くものを整理しては引き出しにしまっておく。全てを整理整頓できるわけではないけれど、可能なかぎりそれをしたいとは願っているようだ。つまり、そうしないと、身辺に不可解な事物が溢れかえってしまうわけで、不安にさいなまれかねない。野の花を摘んで来て、花瓶に挿す。このときに、ちょちょっと前後ろを整える。このことと筍に前後ろを見ることとは、同じ整理の感性に発しているのだ。『美作』(2005)所収。(清水哲男)




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