旅館朝食の定番なり。しかし、家庭でこんな朝ご飯を食べている人は少ないでしょうね。




2005ソスN6ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0662005

 天井に投げてもみたり籠枕

                           岩淵喜代子

語は「籠枕(かごまくら)」で夏。竹や籐(とう)で籠目に編んで、箱枕やくくり枕の形につくったもの。私は持っていないけれど、見た目には涼しそうだ。さて、作者はその枕を「天井」にまで投げ上げてみたとがあると言うのである。思わず笑ってしまった。が、笑った後に、何かしんとした感情も残った。作者が枕を投げ上げたのは、べつに意味あることをしようとしたからではない。ほとんど衝動的に放り上げたのだろうが、こうした衝動は、それが引き起こす行為の過程や結果に意味があろうがなかろうが、人間誰もに自然にわいてくるものだろう。つまり、枕を投げ上げた行為は突飛に写るとしても、その行為の根にある衝動は万人に思い当たる態のものなのである。だから、笑ったのは直接的には作者の不可解な行為に対してなのだが、笑いの対象は、まわりまわれば実は自分自身のこれに似た行為に対してであるということになってくる。このように、その場に誰かがいあわせたとしたら、なんとも不可思議に写るであろう行為を、私たちは日常的に繁く行っているはずである。ひとりでいる気安さからではあるとしても、しかし、こうした行為を抜きにしては、社会的世間的な他者との緊張した交流もまた無いのだと、私は考えている。したがって、しんとせざるを得なかった。そしてまた句に戻り、そこでまた笑ってしまい、それからまたしんとなる……。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)


June 0562005

 薄暑の旅の酒まづし飯まづし

                           田中裕明

語は「薄暑」で夏。初夏の候の少し暑さを覚えるくらいになった気候のこと。昨日、昨年末に他界した作者の主宰していた「ゆう」の終刊号(2005年4月20日発行の奥付・通巻64号)が届いた。ほとんどのページが、田中裕明と同人たちの句で構成された特集「ゆう歳時記」にあてられている。結社の合同句集は珍しくないけれど、季節や季語ごとに句が分類整理された集成は珍しい。それだけ手間ひまを要するからだろうが、一読者にしてみると、やはり歳時記形式のほうが何かと便利でありがたい。主宰者をはじめとする諸氏の句柄の特長もよくわかるので、「ゆう」が「ゆう」たる所以もよく呑み込めたような気がする。掲句は、同誌より。一読、長く闘病生活をつづけていた詩人・黒田喜夫が言っていたのを思い出した。「病人には、中途半端な気候がいちばんコタえる。むしろ寒いなら寒い、暑いなら暑いほうが調子が良いんです」。このときの作者も体調がすぐれずに、同じような不快感を覚えていたのではあるまいか。だとすれば、気分の乗らない「旅」であり、酒も飯も美味かろうはずはない。「まづし」「まづし」の二度の断定に、どうにもならない体調不良がくっきりと刻されていていたましい。世の薄暑の句には夏間近の期待を込めたものが多いなかで、これはまたなんという鬱陶しさだろう。先日の風邪からまだ完全には立ち直れないでいる私には、身につまされるような一句であった。このところの東京地方も、なにやらはっきりしない中途半端な気候がつづいていて不快である。(清水哲男)


June 0462005

 白玉やばくちのあとのはしたがね

                           吉田汀史

語は「白玉」で夏。花札か麻雀か、はたまた競馬競輪の類か。あるいは、もっと大きな危険を伴う金銭的な取引なのか。いずれにしても、作者は「ばくち」で損をしてまった。落胆というよりも、茫然としながら、冷たい「白玉」を口にしている。純心の象徴のような白玉と、かたや無頼の極のようなばくちとの取り合わせ。無頼の果ての白玉は、さぞや目にも舌にもしみたことだろう。そして、手元に残ったのはわずかな金だ。だが、この貴重な金を「はしたがね」と言い捨てるところに、作者の負けん気があらわれていて、私などは凄いなと思ってしまう。侠気の美学とでも言おうか、そういえばいわゆる博才のある人のほうが、金銭を「はしたがね」とか「あぶくぜに」とかと言いなしているようだ。ゼニカネに執着してばくちを打つのではなく、あくまでも勝負にこだわって打つ姿勢を強調するのである。勝負が第一で、ゼニカネは単に後からついてきたりこなかったりするだけの話というわけだろう。からきし博才のない私には、言葉だけでもとうていついていけない。それはともかく、こうした侠気の美学が表舞台に登場することはなかなかないが、しかし、私たちの生活の底流にはいつも脈々と流れているのである以上、もっと詠まれてよいテーマの一つであると思う。それに白玉ばかりをいくら見つめても、この句以上にその純白を描くことは難しそうだ。俳誌「航標」(2005年6月号)所載。(清水哲男)




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