中学の英語教科書に「朝食はオートミール」と出て来た。教師も生徒も見たこともなし。




2005ソスN6ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0862005

 梅雨よわが名刀肥後ノ守錆びたり

                           原子公平

語は「梅雨」で夏。作者、晩年の句。慷慨句とでも言うべきか。茫々たる梅雨のなか、もはや沈滞した気分を払いのけるでもなく、鬱々と楽しめぬままに過ごしている。これで若ければ、なにくその気概もわいてきたろうが、そんな気力も出てこない。このときに「肥後ノ守(ひごのかみ)」とは、いわば若い気力の代名詞だろう。昔の子供はみな、この肥後ノ守という名前の小刀(こがたな)を携帯していた。直接的な用途は鉛筆を削るためなのだが、なにせ小なりといえども刃物なのだから、実にさまざまな場面で活用されたものである。私の場合で言うと、蛙の解剖から野球のバット作りまで、教室の机にイニシァルを刻んだり、茱萸などの枝を伐ったりと、実に用途はバラエティ豊かなものがあった。たまに忘れて学校に行くと、なんだか自分が頼りなく思えたのだから、単なる鉛筆削りの道具以上の意味合いがあったことは確かだ。したがって、上級生くらいになるとときどき砥石で研いでは切れ味を確保することになる。まさに「名刀」扱いだった。でも、喧嘩に使われることは皆無に近かった。それこそ小なりといえどもが、昔の子供には節度を逸脱しないプライドがあったからである。そんなことをしたら、たちまち周囲から軽蔑される環境もあった。このような体験を持っていると、この雨の季節に掲句を吐いた作者の心情は痛いほどによくわかる。ならば「老いる」とは、いたましい存在になるだけなのか。私は私の肥後ノ守を、いま見つめなおしている最中である。いささかの錆は、隠し難くあるような。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)


June 0762005

 勤の鞄しかと抱へてナイター観る

                           瀧 春一

語は「ナイター(ナイト・ゲーム)」で夏。懐かしいような観戦風景だ。実直なサラリーマンが、ちょっと身をこごめるようにして「勤(つとめ)の鞄」を膝の上に抱え、ナイト・ゲームに見入っている。抱えているのはシートが狭いせいもあるが、連れがいないせいでもある。一人で見に来ているのだ。だから、大切な鞄をシートの下に置くなどしていると、安心できない。試合に集中するためには、やはりこれに限ると抱え込んでいるというわけだ。一人の庶民のささやかな楽しみの場としての野球場……。昨今のドーム球場からは、すっかりこんな雰囲気が失われてしまった。他人のことは言えないけれど、いまのスタンドには一人で観に来ている客は珍しいのではなかろうか。たいていが友人や家族と連れ立って来ていて、むろんそれには別の楽しさもあるのだが、どことなく野球を観るというよりもお祭り見物の雰囲気があり気にかかる。昔は作者のような人たちが大勢いて、ヤジも玄人ぽかったし、なによりも野球好きの雰囲気が一人ひとりから滲み出ていた。こうした観客がいたおかげで、選手もちゃんと野球をやれていたのだろう。当時、打者を敬遠している途中でスチールされるなんて馬鹿なことをやったとすれば、そのバッテリーは二度と立ち上がれないほどの厳しい状態に陥ったにちがいない。でも、いまはお祭りだから、その場の笑い話ですんでしまう。ああ、後楽園球場よ、もう一度。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 0662005

 天井に投げてもみたり籠枕

                           岩淵喜代子

語は「籠枕(かごまくら)」で夏。竹や籐(とう)で籠目に編んで、箱枕やくくり枕の形につくったもの。私は持っていないけれど、見た目には涼しそうだ。さて、作者はその枕を「天井」にまで投げ上げてみたとがあると言うのである。思わず笑ってしまった。が、笑った後に、何かしんとした感情も残った。作者が枕を投げ上げたのは、べつに意味あることをしようとしたからではない。ほとんど衝動的に放り上げたのだろうが、こうした衝動は、それが引き起こす行為の過程や結果に意味があろうがなかろうが、人間誰もに自然にわいてくるものだろう。つまり、枕を投げ上げた行為は突飛に写るとしても、その行為の根にある衝動は万人に思い当たる態のものなのである。だから、笑ったのは直接的には作者の不可解な行為に対してなのだが、笑いの対象は、まわりまわれば実は自分自身のこれに似た行為に対してであるということになってくる。このように、その場に誰かがいあわせたとしたら、なんとも不可思議に写るであろう行為を、私たちは日常的に繁く行っているはずである。ひとりでいる気安さからではあるとしても、しかし、こうした行為を抜きにしては、社会的世間的な他者との緊張した交流もまた無いのだと、私は考えている。したがって、しんとせざるを得なかった。そしてまた句に戻り、そこでまた笑ってしまい、それからまたしんとなる……。『硝子の仲間』(2004)所収。(清水哲男)




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