昨朝目覚めたときに、ふっと義母や両親の顔が浮かんだ。虫の知らせとは本当ですね…。




2005ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162005

 闇よりも暁くるさびしさ水無月は

                           野沢節子

朝8時15分に、義母が横浜の病院で亡くなりました。関東地方に、しとしとと雨の降りはじめた時間でした。八十五歳。元来は社交的で明るい女性でしたが、連れ合いに先立たれてからは急激に元気を失って……。句の季語は「水無月」で夏。旧暦六月のことですから、まだ皐月のいまの候にはマッチしません。しかも作者の「さびしさ」の内容もわかりません。が、義母の訃報に接して、自然に追悼の心情と重なってきましたので、ここに掲載して哀悼の意を表することにしました。個人的なことで、読者諸兄姉には申しわけありません。なお、明日の当欄は、もしかすると句のみの掲載となる可能性があります。鑑賞はのちほど埋め合わせて書きますので、その際にはなにとぞ当方の事情ご拝察の上、ご寛容のほどを。(清水哲男)


June 1062005

 松の芯中野竹子の叱咤なお

                           的野 雄

語は「松の芯」。松の新芽、あるいは若葉のことも言う。春季の「若緑」の項に分類しておくが、掲句に詠まれた舞台などを考え合わせると、むしろ入梅前のいまごろの季節と見たほうがよさそうだ。「中野竹子」は戊辰戦争時、女性たちによる薙刀部隊を率いて新政府軍と闘った人物である。「会津藩士中野平内を父に生まれた。資性鋭敏、容姿端麗、才智は衆にすぐれ文武両道に通じ、詩文和歌などの文才もあり、度々藩の賞美をうえ典型的な会津女子としての義に徹し、その反面、ものやわらかな豊麗があふれていたといわれる。明治元年八月戊辰戦争では、柳橋の戦いに挑み、男子も及ばぬ奮戦をしたが、虚しく西軍の凶弾に倒れた。その首級は翌朝、農兵により坂下に持ち帰られ、後に坂下町曹洞宗法界寺に埋葬された」(「うつくしま電子辞典」による)。このとき竹子、二十二歳。若き非業の最期であった。作者は「松の芯」の時期に彼の地を訪れた。すくすくと抜きん出た若緑の様子に、竹子のさもあったろうという勇姿を重ねあわせて、「叱咤なお」と彼女の激しい忠誠心を讃え追悼している。星霜移り人は去るといえども、竹子の心映えは松の緑のように蘇りつづけるだろうということだ。「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」。辞世の歌と言われている。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)


June 0962005

 異腹の子等の面輪や蛍籠

                           西島麦南

語は「蛍籠」で夏。作者の私生活のことは何も知らないので、この「子等」が実子なのか他人の子供なのかは、句だけからではわからない。二人の子供が頬を寄せあうようにして、一つの蛍籠をのぞきこんでいる。その様子を作者が微笑しつつ眺めている図だが、実は二人の子供の母親はそれぞれに違うのだ。この関係を俗に「異腹」と言い、作者は「ふたはら」と読ませている。が、調べてみると『広辞苑』などには「いふく」ないしは「ことはら」の読みで載っていて。「ふたはら」の読みはない。「ふたはら」の読みのほうが、より直裁的で生臭い感じがするが、句の情景にはぴったりだ。子供等はもちろん、作者も普段はさして気にかけてはいないことだけれど、こうやって二人が「面輪(おもわ)」を並べていると、やはり胸を突かれるものがある。似ているところもあるが、やはりそれぞれに異なる母親の面輪も引き継いでいる。血は争えない。もしかすると、まだ幼い二人にはこの事実は告げられていないのかもしれず、だとしたら、作者は気づいた途端にすっと二人から目を外しただろうか。子供等の無心と親(大人)の有心と……。蛍籠の醸し出す親和的な時空間に、思いがけずも吹き込んできた生臭いこの世の風である。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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