前夜義母は何の変調もなく朝方亡くなっていた。私の祖父もそうだった。そうありたい。




2005ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1262005

 だんだんにけぶりて梅雨の木となれり

                           石田勝彦

語は「梅雨」で夏。しとしとと降りはじめた六月の雨。青葉の盛んな木は、はじめのうちは雨にあらがうような様子を見せていた。が、それもひそやかな雨に「だんだんに」けぶってゆくうちに、いつしかしっくりと梅雨に似合う木と化したと言うのである。句意はこんなところだろうが、私なりの掲句への関心は、作者が何故このような情景を詠んだのかという点にある。というのも、この情景は格別に新鮮でもなければ意外性があるわけでもないからだ。なのに、この素材で一句を構えた作者の発想の根っ子には何があるのだろうか。句にするからには、作者はこのいわば平凡な情景に面白さを覚えていることになる。その意識の先には、煎じ詰めれば自然の秩序への憧憬といったものがあるのだろう。いろいろな現象や事物が、収まるべきところに収まる。この自然の秩序に目が向くのは、やはり作者自身も収まるところに収まりたいからだと言える。つまり作者は人であって木ではないけれど、こうした情景に触れるにつけ、人であるよりもむしろ木でありたいと願望するのだ。言い換えれば、小癪な人智で自然に拮抗するのではなく、人智を離れて自然に同化したい心持ちからの作である。八十歳を越えた作者の年輪が、しみじみと腑に落ちる一句だ。『秋興以後』(2005)所収。(清水哲男)


June 1162005

 闇よりも暁くるさびしさ水無月は

                           野沢節子

朝8時15分に、義母が横浜の病院で亡くなりました。関東地方に、しとしとと雨の降りはじめた時間でした。八十五歳。元来は社交的で明るい女性でしたが、連れ合いに先立たれてからは急激に元気を失って……。句の季語は「水無月」で夏。旧暦六月のことですから、まだ皐月のいまの候にはマッチしません。しかも作者の「さびしさ」の内容もわかりません。が、義母の訃報に接して、自然に追悼の心情と重なってきましたので、ここに掲載して哀悼の意を表することにしました。個人的なことで、読者諸兄姉には申しわけありません。なお、明日の当欄は、もしかすると句のみの掲載となる可能性があります。鑑賞はのちほど埋め合わせて書きますので、その際にはなにとぞ当方の事情ご拝察の上、ご寛容のほどを。(清水哲男)


June 1062005

 松の芯中野竹子の叱咤なお

                           的野 雄

語は「松の芯」。松の新芽、あるいは若葉のことも言う。春季の「若緑」の項に分類しておくが、掲句に詠まれた舞台などを考え合わせると、むしろ入梅前のいまごろの季節と見たほうがよさそうだ。「中野竹子」は戊辰戦争時、女性たちによる薙刀部隊を率いて新政府軍と闘った人物である。「会津藩士中野平内を父に生まれた。資性鋭敏、容姿端麗、才智は衆にすぐれ文武両道に通じ、詩文和歌などの文才もあり、度々藩の賞美をうえ典型的な会津女子としての義に徹し、その反面、ものやわらかな豊麗があふれていたといわれる。明治元年八月戊辰戦争では、柳橋の戦いに挑み、男子も及ばぬ奮戦をしたが、虚しく西軍の凶弾に倒れた。その首級は翌朝、農兵により坂下に持ち帰られ、後に坂下町曹洞宗法界寺に埋葬された」(「うつくしま電子辞典」による)。このとき竹子、二十二歳。若き非業の最期であった。作者は「松の芯」の時期に彼の地を訪れた。すくすくと抜きん出た若緑の様子に、竹子のさもあったろうという勇姿を重ねあわせて、「叱咤なお」と彼女の激しい忠誠心を讃え追悼している。星霜移り人は去るといえども、竹子の心映えは松の緑のように蘇りつづけるだろうということだ。「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」。辞世の歌と言われている。『斑猫』(2002)所収。(清水哲男)




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