昨日あたりから湿度が上がってきて,蒸し蒸しする暑さ。応えますね。夏負けにご用心。




2005ソスN6ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2062005

 花氷うつくしきこゑ冷淡に

                           石原舟月

語は「花氷(はなごおり)」で夏。冷房が普及してからは、あまり見かけなくなった。草花などをなかに入れて凍らせた氷柱で、よくホテルやデパート、劇場やレストランなどに飾ってあった。通りがかりに、ちょっと指先で触れてみたりして……。句のシチュエーションは不明だが、どこかそうした場所での印象だろう。たとえばデパートで目的の商品の売り場がわからず案内嬢に訪ねたところ、「うつくしきこゑ」で教えてくれた。それはよいとしても、彼女の「こゑ」がなんだかとても「冷淡に」聞こえたというのだ。そう聞こえたのはおそらく、そこに「花氷」があったからで、なかったとしたら、単に「事務的に」聞こえる声だったのではあるまいか。それがひんやりとした花氷の置かれた気分の良い空間で、てきぱきと事務的な口調で、しかも「うつくしきこゑ」で答えられたものだから、つい「もう少し親身になってくれても」と思ってしまったというところだ。「うつくしきこゑ」は、うつくしいだけに誤解されやすい。それもたいていが、冷淡(そっけない)と受け取られてしまいがちだ。はじめて放送局のアナウンス・ルームに入ったときの、私の印象もそうだった。そこにいる人はみな「うつくしきこゑ」の持ち主で、みんながラジオのように明晰にしゃべっていて、私にはとてもついていけない浮世離れした世界に思われたものだ。慣れればそこもありふれた世間の一つにすぎなかったのだが、「うつくしきこゑ」たちの醸し出していた独特の醒めた雰囲気は忘れられない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


June 1962005

 悲壮なる父の為にもその日あり

                           相生垣瓜人

語は「父の日」で夏。六月の第三日曜日。母の日に対して「父の日」もあるべきだというアメリカのJ・B・ドット夫人の提唱によって1940年に設けられた。俳句の季語として登場したのは戦後もだいぶ経ってかららしく、1955年(昭和三十年)に発行された角川版の歳時記には載っていない。克明に調べたわけではないが、手元の歳時記で見ると、1974年(昭和四十九年)の角川版には載っているので、一般的になりはじめたのはこのあたりからなのだろう。その解説に曰く。「母の日ほど一般化していないようだが、徐々に普及しつつある」。定着するのかどうか、なんとなく自信のなさそうな書きぶりだ。現在の角川版からは、さすがにこの一行は省かれているけれど、比較的新しい平井照敏の編纂になる河出文庫版(1989年)でも、筆は鈍い。「母も父もともに感謝されてしかるべきだが、父の日は母の日に比べてあまりおこなわれないようである。てれくさいのか、こわいのか、面倒なのか、父はなんとなく孤独な奉仕者である」。したがって掲載されている例句もあまりふるわず、そんななかで、掲句は積極的に「そうだ、父の日があってしかるべきだ」と膝を打っている点で珍しい。現代に見られるように、父親と友だちのようにつきあうなど考えられず、ただただ存在自体がおそろしかった時代の句だ。そんな父親との関係とも言えぬ関係のなかで、一家を背負った父の「悲壮」をきちんと汲み取っていた作者の優しい気持ちが嬉しい。悲壮の中味はわからないが、戦中戦後の困難な時代の父親のありようだろうと、勝手に読んでおく。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)他に所載。(清水哲男)


June 1862005

 薔薇の園少女パレット開けずじまひ

                           津田清子

語は「薔薇」で夏。「少女」は同行の女の子だろうか。あるいは、作者の少女期を思い出しての作かもしれない。いずれにしても、薔薇の花を描こうとせっかく用意していった絵の道具を、とうとう「開(あ)けずじまひ」にしてしまったと言うのである。あまりの薔薇の華麗さに気後れしたこともあるかもしれないが、むしろ出かける前に想像していた「薔薇の園」の様子が、予想とはかけ離れていたことのほうが大きかったのではあるまいか。たとえば、こんなに見物の人が多いとはだとか、花の種類の多さに戸惑ったとか……。それですっかり、描きたい気持ちが萎えてしまったのだ。「パレット」を持っていくくらいだから、絵には自信があるのだろう。だが、そういう場所で絵を描くためには、大きく言えばその場の環境全体に馴染むことが先決だ。絵の道具があっても、場所を味方にできないとどうにもならない。そしてこのことは何も絵に限ったことではないのであって、人生諸事においても、ついにパレットを開かずに終わることの何と多いことだろう。私なども、つい言うべきことを言いそびれたり、なすべきことを他日に延ばしてしまったりと、その場の雰囲気に負けてしまったことは、世間知らずの若年のときほど多かったように思う。何もしなかったこと、できなかったことの積み重ねも、また人生である。その意味においては、句の少女はやはり作者の若き日の姿だと読むほうが適当かなと、だんだんそんな気がしてきた。「俳句研究」(2005年7月号)所載。(清水哲男)




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