2005N7句

July 0172005

 暇乞い旁百合を嗅いでいる

                           池田澄子

語は「百合」で夏。「旁」は「かたがた」。玄関先だろうか。「暇(いとま)乞い」に訪れた人が、たまたまそこに活けてあった「百合を嗅いでいる」。百合を嗅ぐ行為と暇乞いとは何の関係もないのだけれど、ほとんどの読者はこの情景を、ごく自然なものとして受け入れるだろう。訪ねてきた人を変わった人だなどとは、まず思わない。それはおそらく、シチュエーションは違っても、私たちは日常的にこの種の行為を自分で繰り返したり目撃したりしているからだと思う。何かをする「旁」、ほとんど無意識的に目的とは無関係な行為をプラスするのだ。何故だろうか。……と問うほうが実は変なのであって、人間は合目的的な行為だけを選択し実践しているわけじゃない。合理の世界から言えば、むしろ無駄な行為を多く実践することによって、人はようやく合理に近づけるのではなかろうか。句の人の合理は、むろん暇乞いにある。が、暇乞いとは通常別れ難い感情を内包しているから、単に事務的に口上を述べればよいというものではない。いくら言葉で別れ難さを表現したとしても、口上では表現できない感情の部分が残ってしまう。何かまだ、相手には伝え足りない。落ち着かない。そんな思いが、突然百合の香を嗅ぐという非合理的な行為につながった。心理学者じゃないので、当てずっぽうに言ってみているだけだが、これも人情の機微の不思議なところで、その一瞬を逃さずに詠んだ作者の目は冴えに冴えているとしか言いようが無い。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


July 0272005

 夜店より呼びかけらるることもなし

                           大串 章

語は「夜店」で夏。夜店を「冷やかす」と言う。とくに何かを買うというのではなく、ぶらぶらと見て回りながら、その雰囲気を楽しむ。店の人と軽口を叩き合うのも楽しい。作者も冷やかして歩いている。「呼びかけら」れれば、冗談口の一つや二つは交わすつもりでいたのに、しかし「呼びかけらるることもなし」に終わってしまった。思い返せば今宵に限らず、いつだってそうだったなあという苦笑まじりの感慨がわく。私も、呼びかけられないクチだ。不思議なもので、逆にいつも「シャチョーッ」だの「オニーサン」だのと声をかけられる友人もいる。夜店の人からすれば、呼びかけやすいタイプとそうでないタイプの人があるのだろう。たとえ買ってくれそうにはなくても呼びかけて、その場の雰囲気を盛り上げてくれる客が直感的にわかるのだ。そういえば、放送の仕事での街頭インタビューでもそうだった。そのときの私は夜店の主人の立場にあったわけだが、だんだん経験を積んでゆくうちに、マイクを向けても大丈夫な人と駄目な人とが見た目でわかるようになってきた。駄目そうだなと思った人は、まずたいていが何も言ってくれない。たとえしゃべってくれても、面白くなかったり要領を得なかったりする。したがってこちらも能率を考えるから、呼びかけやすいタイプの人だけに近づくことになってしまう。これは何も私に限った話ではなく、ほとんどのインタビュアーやディレクターがそうしているはずだ。テレビやラジオのインタビューに答えている人は、いかにも一般の声を代表しているように聞こえるが、実は一般の人のほんの一部しか代表していない理屈になる。『大地』(2005)所収。(清水哲男)


July 0372005

 恙なき雲つぎつぎに半夏かな

                           廣瀬直人

語が「半夏(はんげ)」であるのは間違いないが、どの項目に分類するかについては、いささか悩ましいところのある句だ。というのも、単に「半夏」といえば一般的には植物の「カラスビシャク」のことを指すからである。だが、私の知るかぎり、この植物を季語として採用している歳時記はない。ならば当歳時記で新設しようか。でも、待てよ。歳時記をめくると、半夏が生えてくる日ということから「半夏生(はんげしょう)」という季語があって、こちらは全ての歳時記に載っている。今年は昨日7月2日がその日だった。そこで悩ましいのは、掲句の中味はカラスビシャクを知っていても、こちらの季語の意味を知らないと解けない点である。すなわち、「恙(つつが)なき雲」は明らかに、半夏生の日の天気によって米の収穫を占った昔の風習を踏まえている。梅雨の晴れ間の空に「つぎつぎに」生まれる白い雲を眺めながら、作者は昔の人と同じように吉兆を感じ、清々しい気持ちになっているのだ。だとすれば、何故「半夏かな」なのだろう。ここをずばり「半夏生」と押さえても字余りにもならないし、そのほうがわかりやすいし、いっこうに差し支えないのではないか。等々、他にもいろいろ考えてみて、一応の結論としては、句作時の作者の眼前には実際にカラスビシャクが生えていたのだと読んでおくことにした。つまり季語の成り立ちと同様に、句のなかでは植物の「半夏」にうながされて「半夏生」が立ち上がってきたのであり、はじめから「半夏生」がテーマではなかったということだ。ブッキッシュな知識のみによる句ではないということだ。便宜的に一応「半夏生」に分類はしておくが、あくまでも「一応」である。俳誌「白露」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


July 0472005

 大衆にちがひなきわれビールのむ

                           京極杞陽

とより私もそうだが、たいていの人はこうした感慨を抱くことはない。いや、感慨以前の問題として、あらためて自分が「大衆」の一員であると強く意識させられることも、滅多にないだろう。しかし、世の中には少数ではあるが、作者のような人もいたわけだし、いまも何処かにはいる。以下の作者略歴(記述・山田弘子)が、そのまま句の解釈につながってゆく。京極杞陽(きょうごく・きよう)。「明治41年2月20日、東京市本所に、父高義(子爵)母鉚の長男として誕生。本名高光。豊岡藩主十四代当主(子爵)。大正9年学習院中等科に入学。大正12年9月、関東大震災により生家焼失、一人の姉を残し家族全員と死別。昭和3年東北帝大文学部に入るも一年で京都帝大文学部に移る。昭和5年東京帝大文学部倫理科に入学。昭和8年4月、大和郡山藩主(伯爵)柳沢保承長女昭子と結婚。昭和9年東京帝大卒業。11月、長男高忠誕生。昭和10年〜11年ヨーロッパに遊学。昭和11年4月渡欧中の高浜虚子歓迎のベルリン日本人会の句会で虚子と出会い生涯の師弟関係が生まれる。昭和12年宮内省式部官として勤務。11月「ホトトギス」初巻頭。昭和13年高浜年尾発行編「俳諧」に加わる。1月次男高晴誕生。(中略)。昭和18年2月五男高幸誕生。11月家族を郷里豊岡に疎開させ単身東京に残る。(中略)。昭和21年宮内省退職。昭和22年4月『くくたち・下巻』刊。5月新憲法により貴族院議員の資格を失う。11月山陰行幸の昭和天皇に拝謁。……」。掲句は、この後に生まれたのだろう。人は親を選べない。『俳句歳時記・夏の部』(1955)所載。(清水哲男)


July 0572005

 輪唱の昔ありけり青嵐

                           平林恵子

語は「青嵐」で夏。「輪唱(りんしょう)」と聞いてすぐに思い出すのは、三部輪唱曲のアメリカ民謡「静かな湖畔で」だ。♪静かな湖畔の森の陰から もう起きちゃいかがとカッコウが鳴く……。戦後の一時期には、大いに歌われた。青嵐の季語から見て、作者の頭にもこの曲があったのかもしれない。どんな時代にも人は歌ってきたが、なかで輪唱が盛んだったのは、日本では敗戦から二十年ほどの間くらいだろうか。輪唱は一人では歌えない。その場の誰かれとの、いわば協同作業である。すなわち一人で歌うよりも、みんなで歌うほうが楽しめた時代があったのだ。かつての「歌声喫茶」は輪唱に限らないが、合唱や斉唱を含め、もっぱら複数で歌うことのできる場を提供することで、大ブレークしたのである。対するに、現在流行の「カラオケ」は一人で歌うことがベースになっている。私などにはこの差は、敗戦後の苦しい生活のなかで肩寄せあって生きていた時代とそうでなくなった時代とを象徴しているように思われてならない。戦後の庶民意識は60年を経るうちに、いつしか「みんなで……」から「オレがワタシが……」に完全に変質してしまったということだろう。このことへの評価は軽々には下せないけれど、清々しい青嵐に吹かれて一抹の寂しさと苦さとを覚えている作者には共感できる。俳誌「ににん」(2005年夏号・通巻19号)所載。(清水哲男)


July 0672005

 寝不足にやや遠ざけし百合の壺

                           能村研三

語は「百合」で夏。「寝不足」がたたって、体調がよろしくない。それでなくとも百合の花の芳香は強いから、こういうときにはいささかうとましく感じられるものだ。そこで、飾ってある壺を少しだけ遠ざけたと言うのである。花粉が飛び散らないように、そろそろっと壺を押しやっている作者の手つきまでが見えるようだ。このように、体調如何によって人の感覚は微妙に変化する。その昔の専売公社の宣伝に「今日も元気だ、煙草がうまい」というのがあったが、これなどもそのことをずばりと言い当てた名コピーだろう。だから、誰にとっても常に美しかったり常に美味かったりする対象物はあり得ないことになる。すべての感覚は、体調や、それに多く依拠している気分や機嫌の前に、相対的流動的なのであって定まることがない。ただ哀しいかな、私たちがそのことを理解できるのは体調不良におちいったときのみで、いったん健康体に戻るや、けろりと「永遠絶対の美」などという観念に与したりするのだから始末が悪い。飛躍するようだが、テレビなどという媒体は、視聴者が全員元気であることを前提にしている。したがって、身体的弱者や社会的弱者へのいたわりの気持ちが無い。早朝から天気予報のお姉さんがキャンキャン言い募るのも、視聴者がみな熟睡して爽快な気分で目覚めていると断定していることのあらわれで、句の作者のような状態ははじめから勘定の外にあるわけだ。やれやれ、である。『滑翔』(2004)所収。(清水哲男)


July 0772005

 瓜番へ闇を飛び来し礫かな

                           守能断腸花

語は「瓜番(うりばん)」で夏。マクワウリやスイカが熟する時期、夜陰に乗じて盗みに来る者がいた。これを防ぐための番人のことで、小屋の中で番をする。ウリ類が、今よりもずっと貴重だった頃にできた季語だ。瓜番を詠んだ句を調べてみると、おおかたは「まんまろき月のあがりし西瓜番」(富安風生)のように、平穏なものが多いようだ。瓜泥棒はこそ泥だから、誰かが見張っているとなれば、畑に近寄っても来ないからだろう。したがって、掲句のような例は珍しい。いつもは何事もなく過ぎてゆく瓜番小屋に、突然「礫(つぶて)」が「闇」の中から飛んできた。その鋭い勢いで、何か固い物が偶然に小屋に落ちてきたのではないと知れる。明らかに、誰かが小屋をめがけて投げたのである。単なるいたずらか、何かの挑発か、あるいは小屋に人がいるかどうかを探るために投げたのか。さっと緊張感が走った瞬間を言い止めた句で、こういう句は想像では作れない。現場にいた者ならではの臨場感に溢れている。この瓜番も近年ではすっかり姿を消してしまい、死語になった。が、サクランボの名産地で知られる山形などでは、夜間の見回りが欠かせないところもあると新聞で読んだ。世に盗人の種は尽きまじ……。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 0872005

 明易や書架にむかしのでかめろん

                           伊藤白潮

語は「明易(あけやす)し」で夏、「短夜(みじかよ)」に分類。最近では午前4時を過ぎると、もう明るくなってくる。早起きの私などには好都合だが、もう少し遅くまで寝る習慣の人が、そんな時間に目覚めてしまうと、いつもの朝には見えなかったものが見えたりするものだろう。作者の場合も、おそらくそうである。目覚めたものの、まだ起き上がるのには早すぎる。かといって、もう一度寝直すというほどの時間でもない。どうしようかと思いながら、なんとなく部屋の隅の「書架」を眺めているうちに、昔買い求めた『でかめろん』の背表紙が目に入った。有名なボッカチオの『デカメロン』の翻訳書で、若い頃に読んだきりのまま、そこにそうして長い間さしてあったのだ。だから本当はいつでも目にしているわけだが、あまりにも長い年月にわたって同じ場所にあり取り出すこともなかった本は、もはや書籍というよりも書架の一部と化しているので、普段は意識することもない。それがたまたまの早朝の目覚めで、薄明かりの中に書籍としての存在感をもって出現したのである。当然に、読みふけった頃のあれこれがぼんやりと思い出され、「むかしのでかめろん」という柔らかな平仮名表記は、その思い出が多感な青春期の甘酸っぱさに傾いていることを暗に告げている。私も思わずもそうしたが、この句を読んで、あらためて自分の書架を眺めてみる人は多いだろう。誰にでもそれぞれに、それぞれの『でかめろん』があるはずである。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(清水哲男)


July 0972005

 遠雷や別れを急くにあらねども

                           吉岡桂六

語は「遠雷」で夏、「雷」に分類。喫茶店だろうか。いつしか熱心に話し込んでいるうちに、ふと遠くで雷が鳴っているのに気がついた。表を見ると、それまでは晴れていた空がすっかり暗くなっている。降り出すのも、時間の問題だ。まさか降るとは思わないので、相手も自分も傘を持ってきていない。それからは、お互いに気もそぞろ。話はまだ途中なのだが、遠雷のせいで、心持ちはだんだん中腰になっていく。といって時間はまだ早く、べつに「別れを急(せ)く」必要はないのだけれど、ずぶぬれになるかもしれぬイメージが先行して、なんとなく落ち着かないのだ。よほど親しい間柄なら、止むまでここでねばろうかと腹をくくるところだが、そういう相手でもないのだろう。それに、相手にはこの後の予定があるかもしれない。などと口には出さないが、お互いにお互いの不確かな事情を思いやって、こういうときには結局、どちらからともなくぐずぐずと立ち上がってしまうものだ。話が面白かっただけに、別れた後にしばし残念な気持ちが残る。で、これで夕立が来なかったとなればなおさらに後を引く。誰にでも、そんな経験の一度や二度はあるだろう。そうした日常の地味な人情の機微を、さりげない手つきで巧みに捉えた佳句だ。俳句でないと、この味は出ない。『東歌』(2005)所収。(清水哲男)


July 1072005

 お流れとなりし客間の日雷

                           澁谷 道

語は「日雷(ひかみなり・ひがみなり)」で夏、「雷」に分類。晴天時にゴロゴロッと鳴って、雨を伴わない雷だ。我が家にそんなスペースはないけれど、「客間」というのは普段は使うことのない部屋である。だから、いざ来客があるとなると、窓を開けて空気の入れ替えをしたり掃除をしたり、それなりに花を活けたりなどといろいろ準備をすることになる。それが先方のよんどころない事情のために、急に来られなくなってしまった。「お流れ」である。迎える準備をしただけではなく、とても楽しみにしていた来訪だったので、作者はがっかりしている。拍子抜けした目で客間を見回しているうちに、ときならぬ雷鳴が聞こえてきた。思わず外に目をやるが、よく晴れていて降りそうな気配もない。妙な日だな。立ちつくした作者に、そんな思いがちらりとよぎる。このときに「お流れ」と「日雷」は何の関係もない。ないのだが、この偶然の雷鳴は作者のがっかりした気持ちの、いわば小さな放心状態を増幅し補強することになった。つまり、ここでの雷鳴はドラマのBGMのような効果をもたらしているのである。人生に映画のようなBGMがあったら、どんなに面白いかと夢想することがあるが、私にこの句は、偶然の音を捉えて、そんな夢想の一端を現実化してみせたもののように写る。「俳句研究」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


July 1172005

 生きていることの烈しき蛸つかむ

                           吉田汀史

国で育ち、あとは都会でしか暮らしたことがないので、海のものにはほとんど無知である。掲句の季語を迷いなく「蛸(たこ)」で夏期ととってしまったのも、その証拠のようなものだ。念のためにと思い手元の歳時記にあたってみたところ、季語「蛸」が見当たらないのには愕然とした。「迷いなく」思い込んでいたのは、どうやら芭蕉の有名な「蛸壺やはかなき夢を夏の月」が頭にあったからのようだ。だが、この句でも蛸は季語ではない。ただし調べてみると、蛸の水揚げ量が最も多いのは産卵期にあたる春から夏にかけてだそうだから、徳島在住の作者にとっての蛸漁は、春ないしは夏のイメージなのだろうと推察した次第だ。そんなふうだから、私はもちろん生きた蛸をつかんだことはない。けれども、掲句の言わんとするところはよくわかる。もはやぐたっとなっているかに見えた蛸をつかんだら、想像以上予想外の強力な「抵抗」にあい、たじたじとなると同時に、生命あるものの激しさに畏怖を覚えたのだった。私がそのことを肝に銘じたのは、中学一年のときだったろうか。教室で野ウサギの解剖をしている最中に、麻酔の切れたウサギが猛然と暴れ出したことがあった。思い出すだに冷たい汗の出てくる体験だが、生命の力とは強いものだ。だからこそ逆に、いざ生命が失われてみると、そのはかなさがより強く印象づけられるのだろう。俳誌「航標」(2005年7月号)所載。(清水哲男)

[ 訂正というか…… ]読者からのご教示もあり調べたところ、夏の季語に「蛸」を採用している歳時記がいくつかあることがわかりました。平凡社版、学研版、講談社版など。当歳時記は角川版(ときに河出版)に準拠しており、同版にはないのですが、作者の句風からみて「蛸」を季語としたほうが妥当と考え、夏期に分類することにしました。同様の問題はたまに出現し、悩まされるところです。


July 1272005

 月下美人しぼむ明日より何待たむ

                           小島照子

語は「月下美人」で夏。その豪華な姿から「女王花」とも言われる。夜暗くなってから咲きはじめ、朝になるまでにしぼんでしまうところが、なんとも悩ましい。育ててもなかなか咲いてくれないようで、私なども一度だけしか見たことがない。そんな具合だから、いざ今夜には咲きそうだとなると大変だ。友人知己や近所の人に声をかけるなどして、ちょっとした祝祭騒ぎとなる。「月下美人呼ぶ人来ねば周章す」(中村汀女)なんてことにもなったりする。で、そんなにも楽しみに待っていた花も、あっけなくしぼんでしまった。しぼんだ花を見ながら、作者は「明日より何待たむ」と意気消沈している。大袈裟な、などと言うなかれ。それほどまでに作者は開花を楽しみにしていたのだし、これに勝る楽しみがそう簡単に見つかるとは思えない……。作者の日常については知る由もないけれど、高齢の方であれば、なおさらにこうした思いは強くわいてくるだろう。私にもだんだんわかってきたことだが、高齢者が日々の楽しみを見つけていくのは、なかなかに難しいことのようである。時間だけはたっぷりあるとしても、身体的経済的その他の制約が多いために、若いときほどには自由にふるまえないからだ。言い古された言葉だが、日々の「砂を噛むような現実」を前に、作者は正直にたじろいでいる。この正直さが掲句の味のベースであり、この味わいはどこまでも切なくどこまでも苦い。俳誌「梟」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


July 1372005

 鹽味のはつたい新刊の書を膝に

                           赤城さかえ

語は「はつたい(はったい)」で夏、「麦こがし」に分類。「はったい」は京阪神での呼び名のようだ。麦を炒って細かく挽き、粉にしたもの。砂糖を加えてそのまま食べたり、湯に溶いて食べたりする。いまでも探せば売っているらしいが、日常的にはなかなか見かけなくなった。掲句は、砂糖がまだ貴重品で高価だった時代のものだ。戦後間もなくの頃だろう。どれくらい貴重だったかについては、子供だった私にも鮮明な記憶がある。来客があると、いわゆるお茶うけに、菓子がわりに単なる砂糖を出したものだった。半紙の上に小さく盛られた砂糖の山を、大の大人がありがたくぺろぺろと舐めていたのだから、今ではちょっと信じられない光景である。それを横合いから、舐めさせてもらえない子供が恨めしそうに盗み見している……、そんな時代だった。だから本来は砂糖を入れるべき「はったい」に、「鹽(しお・塩)」をかけて食べたとしても、そんなに珍しい食べ方というわけではない。これまた、私にも体験がある。もちろん美味くはないけれど、作者の場合には、そんなことよりも膝の上に置いた「新刊の書」への期待で胸が高鳴っている。すなわち、彼は砂糖を購うことよりも、その代金を節約して新刊書を求めたというわけで、心中は意気軒昂。さながら「武士は食わねどナントヤラ」の気概に、一脈通じる趣のある句だ。この時代に、逆に私の父は家族の食のために、全ての本を売り払った。今年は敗戦後六十年、複雑な思いが去来する。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


July 1472005

 少年の夏シャツ右肩裂けにけり

                           中村草田男

語は「夏シャツ」。といってもいろいろだが、この場合は下着としての白いシャツだろう。昔はTシャツなんぞという洒落たものはなかったので、暑い日中はたいてい下着のシャツ一枚で遊び回っていたものだ。そんなシャツ姿の少年の右肩のところが裂けている。何かに引っ掛けた拍子に裂けたのか、喧嘩でもしてきたのか。「裂けにけり」と句は現在完了形で、いかにも作者の眼前で裂けたかのような書きぶりだが、実際にはもう既に裂けていて、あえてこうした表現にしたのは、裂け方の生々しさを強調したかったからだ。このときの少年の姿は、単なる悪ガキのイメージを越えて、子供ながらにも精悍な男の気合いを感じさせている。とにかく、カッコウがよろしいのである。いましたね、昔はこういう男の子が……。ところで下着のシャツといえば、現在の普段着であるTシャツも、元来はGI(米兵)専用の下着だったことをご存知だろうか。まだ無名だった若き日のマーロン・ブランドが、『欲望という名の電車』のリハーサルに軽い気持ちでそれを着ていったところ、エリア・カザンが大いに気に入り本番でも採用することにした。で、映画は大ヒットし、昨日までの下着が、以来外着としての市民権を得ることになったというわけである。ほぼ半世紀前、1947年のことだった。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1572005

 椎の花降つて轍の深きかな

                           満田春日

語は「椎の花」で夏。もう花期は過ぎたかな。子供の頃、近所に椎の大木があった。夏は蝉取りの宝庫であり、秋には落ちてくる実を食べたものだが、花なんぞには関心がなかったので、つぶさに観察したことはない。ただなんとなく、淡黄色の花がわあっと固まって咲いていたような記憶が……。ただし、この花に「散る」という言葉が似合わないことだけはわかる。ちらほらと散るのではなくて、高いところから長い穂ごと落ちてくるからだ。調べてみると、これは雄花なんだそうだが、とにかく椎の花それ自体は強烈な匂いとあいまって、およそリリカルな情趣には遠い花だ。したがって、句の散文的な「降つて」の言い方は極めて妥当、降った花穂が「轍(わだち)」に嵌り込んでいて、そのことからあらためて轍の深さを思ったのも妥当な心の動きである。他の植物の花びらだと、よほど散り敷いている場合は別として、なかなか轍の深さにまでは思いが及ぶまい。やはり花びらとは言い難いボリューム感のある椎の花穂だから、落ちている量は少なくても、轍とその深さが鮮やかに思われたのだ。鬱蒼たる夏木立には、少し湿り気を帯びた風が吹いているのだろう。最近の道はどこもかしこも舗装されてしまい、轍を見かけることも少なくなってしまった。その意味でも、私には懐かしい土の匂いがしてくるような一句であった。『雪月』(2005)所収。(清水哲男)


July 1672005

 昔より美人は汗をかかぬもの

                           今井千鶴子

語は「汗」で夏。ふうん、そうなんですか、そういう「もの」なのですか。作者自注に「或る人曰く、汗をかくのは下品、汗をかかぬのも美人の条件と」とある。なんだか標語みたいな俳句だが、ここまでずばりと断定されると(しかも女性に)、いくらへそ曲がりな私でもたじたじとなってしまう。そんなことを言ったって、人には体質というものもあるのだから……、などと口をとんがらせてもはじまるまい。そういえば、名優は決して舞台では汗をかかないものと聞いたことがある。なるほど、舞台で大汗をかいていては折角の化粧も台無しになってしまう。このことからすると、美人のいわば舞台は日常の人前なのだから、その意味では役者とかなり共通しているのかもしれない。両者とも、他人の視線を栄養にしておのれを磨いていくところがある。だからいくら暑かろうが、人前にあるときには、持って生まれた体質さえコントロールできる何かの力が働くのだろう。精神力というのともちょっと違って、日頃の「トレーニング」や節制で身につけた一種条件反射的な能力とでも言うべきか。高浜年尾に「羅に汗さへ見せぬ女かな」があるが、これまた美人の美人たる所以を詠んでいるのであり、そんな能力を備えた涼しい顔の女性を眼前にして驚嘆している。それも、少々あきれ加減で。「羅」は「うすもの」と読む。「俳句」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


July 1772005

 大股になるよサングラスして横浜

                           川角曽恵

語は「サングラス」で夏。いいですね、この破調。「横浜」の体言止めも効いている。作者は横浜在住の人ではなく、遊びに来ているのだろう。地元ではかけないサングラスをして、ちょっと別人になった気分で街を歩いている。サングラスの効果でその気分も高揚し、足取りもひとりでに「大股」になってゆく。まるで映画か物語の主人公になったようで、心地よい。そして、この街は東京でもなく大阪でもなく、横浜なのだ。港町の自由で開放的な雰囲気が、サングラスにとてもよく似合っている。サングラスにもよるけれど、玉の色の濃いものだと、外部からはかけている人の目の動きは見えない。そのことを承知してかけていると、かけていないときよりも視線はぐんと大胆になる。普段なら自然にすっと視線を外すような相手でも、目を逸らさなくてすむ。私は三十代のころにサングラスを愛用した経験があるので、作者の弾む気持ちがよくわかる。この弾む気持ちを持続したくて、そのうちに夜の時間もかけるようになってしまった。早い話が、サングラス中毒になっちゃった。美空ひばりの母親が野坂昭如をなじって、「夜の夜中にサングラスをしているような男を、私は信用できない」と言ったころのことだ。ひばりファンの私としては大いに困惑したけれど、結局中毒には長い間勝てなかった。あのサングラス、家の中のどこかにまだあるはずだが……。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


July 1872005

 朝ぐもりはめても落ちる鍋のねじ

                           水津奈々枝

語は「朝ぐもり(朝曇)」で夏。季語として定着したのは近代以降と、比較的新しい。夏の朝、いっそ晴れていればまだ多少は清々しいものを、もわあっと曇っている。蒸し蒸しする。こういうときには、決まって日中は炎暑となるのだ。作者は、朝食の用意をしているのだろう。鍋の蓋のねじが甘くなっていたので、ぎゅっと締め直したはずが、ころんと外れて落ちてしまった。男だったら舌打ちの一つもするところだけれど、やれやれともう一度直しにかかる。「今日も暑くなりそうだ」。朝曇特有のけだるいような感じが、台所での些細な出来事を媒介にしてよく伝わってくる。「旱(ひでり)の朝曇」という言葉があるそうだが、日中の晴れと暑さを約束するのが朝曇りである。どうしてそうなるかといえば、「朝、夜の陸風と昼の海風が交代し、温度の低い海風が、前日、日照によって蒸発していた水蒸気をひやすため」(平井昭敏)だという。私の田舎では「朝曇は大日(おおひ)のもと」と言っていて、子供でも知っていた。なにせ夏期の農家のいちばん辛い仕事は、田畑の草取りだったから、目覚めて朝曇りだと、大人たちはさぞやがっかりしたにちがいない。「照りそめし楓の空の朝曇」(石田波郷)などと、風流な心情にはとてもなれなかったろう。そんな農業人の朝曇りの句がないかと探してみたが、見当たらなかった。「BE-DO 微動」(2005年5月・NHK文化センター大阪教室ふけとしこ俳句講座作品集1)所載。(清水哲男)


July 1972005

 片蔭の家の奥なる眼に刺さる

                           西東三鬼

語は「片蔭」で夏。夏の日陰のことで、午後、町並みや塀や家のかげに日陰ができる。作者は炎天下を歩いてきて、ようやく人家のあるところで日陰にありついた。やれやれと立ち止まり、一息入れたのだろう。と、しばらくするうちに、どこからか視線を感じたのである。振り向いて日陰を借りている家の窓を見ると、「奥」のほうからじっとこちらを見ている「眼」に気がついたのだった。いかにも訝しげに、とがめ立てをしているような眼だ。べつに悪いことをしているわけではないのだけれど、おそらく作者は慌ててそそくさとその場を離れたにちがいない。他人のテリトリーを犯している、そんな気遣いからだ。でも、たいていのこうした場合には、視線を感じた側の勝手なひとり合点のことが多い。家の「奥なる眼」の人はただ何気なく外を見ていただけかもしれないのに、それを「刺さる」ように感じてしまうのは、他ならぬ自分にこそテリトリー意識が強いからだと言える。つまり、自分の物差しだけで他人の気持ちを推し量るがゆえに、なんでもない場面で、ひとり傷ついたりしてしまうということだ。といっても、私たぐりちはこの種の神経の働かせ方を止めることはできない。できないから、余計なストレスは溜まる一方となる。現実から逃避したくなったり切れたりする人が出てくるのも、当然だろう。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 2072005

 すれ違つてから金魚賣は呼ぶ

                           加倉井秋を

語は「金魚賣(金魚売)」で夏。かつては夏の風物詩だったが、最近ではとんと見かけなくなった。町を流して歩く金魚売りは、もう絶滅してしまったのかもしれない。句の作者は、おそらく自宅の近所を歩いているのだ。歩いていると、向うから車を引いてやってくる金魚売りが見えた。一瞬作者は「買って帰ろうかな」と思ったにちがいない。ところが近づいてきた金魚売りは、声をかけるでもなく「すれ違」い、通り過ぎたかと思ったら急に呼び声を出しはじめた。ただこれだけのことを作者が句にしたのは、最初は腑に落ちなかった金魚売りの態度が、後で十分に納得できたからだろう。つまり、金魚売りとはそういうもの、そういう商売なのであると……。要するに、彼の目指す客は道を歩いている人ではなく、常に彼の呼び声が届く範囲の家の中にいる人たちなのである。道行く人の袖を引いてみたところで、よほどの偶然に恵まれなければ、売れるはずもない。道行く人は仕事の最中だったり、遠くから来ている人だったりするからだ。したがって、すれ違う人はまず商売にはならない。ならない人に声をかけても仕方がないし、にもかかわらず面と向かって呼びかける格好になるのも失礼だしと、そんな配慮から作者とも黙ってすれ違ったというわけだ。最近車でやってくる物売りは、みなテープに売り声を仕込んでいるので、すれ違おうがおかまい無しにがなり立てつづけている。あれでは、とうてい風物詩にはなり得ない。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


July 2172005

 親ひとり子ひとり林間学校へ

                           山県輝夫

語は「林間学校」で夏。最近では「サマースクール」と言っているようだ。夏休みの数日間をを利用して、都会の子供たちが高原や海岸など自然豊かな土地で過ごす。勉強もするが、登山やハイキング、あるいは風呂を沸かしたり食事を作るなど、どちらかといえば規則正しい生活と健康増進がねらいの「学校」だ。明治期に外国の影響ではじめられたのだが、当時は身体虚弱な子供のための転地療養的な意味合いが濃かったという。さて、掲句の「子」は、はじめて親元を離れるのだろう。「親ひとり」の「親」は作者のはずだから、父親である。子供のほうは無邪気に喜々としているのだけれど、送り出す父親としてはいささかの不安がつきまとう。現地でのことにさして心配はないとしても、タオルや歯ブラシからはじまって着替えなど必要なものの準備は整っているのか、万一熱でも出した場合の薬類は持たせるべきなのか、等々の不安だ。すなわち、母親だったら簡単に常識的に片付けられるもろもろの準備が、男親ゆえに気がつかないところがあるのではないのかと、子の出発ぎりぎりまで心配なのである。参加者に配られたパンフレットを、子供が寝た後で何度もチェックしている作者の姿が目に浮かぶ。こんなに読者をも巻き込んで、はらはらさせる句も、そうめったにあるものではない。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 2272005

 極東の小帝国の豆御飯

                           上野遊馬

語は「豆御飯(豆飯)」で夏。グリーンピース入りが、いちばん美味いかな。と思ったところで、掲句の仕掛けがするするっと解けた(ような気がする)。「極東の小帝国」とは、むろん他ならぬ私たちの暮らす日本国のことだ。大日本帝国が破綻して、今年で六十年。理想的な民主主義的平和国家建設を目指していたはずが、気がつけばご覧の通りのていたらく。イラクに自衛隊を派遣常駐させ、国連安保理常任理事国入りへ血道をあげている姿は、その姑息なやり口に照らして、帝国は帝国でも未だ「小」の範疇でしかないのだろう。憲法を改定せよとの動きも、また然り。このときに「極東」という方位は欧米からの位置づけだから、この小帝国という評価も単に作者一個人の判断を越えて、国際的な視野からのそれであることを暗示している。そんな広い視野から現今の日本をつらつら眺めてみると、もはや平和国家は骨抜き寸前であり、実質的な「ピース」はわずかに豆御飯のなかくらいにしかないのではないかとすら思われてくる。厳密に言えば、平和の"peace"とグリーンピースの"peas"とは綴りが違うけれども、日本語の表記は同一だ。さらに"peace like peas"と取れば、いっそう皮肉がきつくなる。以上、……とは書いてみたものの、作句意図とはまったく違っているかもしれぬという不安は残る。間違ってしまったとすれば、敗戦後六十年にこだわるあまりの昨今の私の心情のせいにちがいない。他の解釈があれば、ヒントなりともご教示を願いたい。俳誌「翔臨」(2005年7月・第53号)所載。(清水哲男)


July 2372005

 定年の無位のアロハの涼しけれ

                           久本十美二

語は「アロハ」で夏、「夏シャツ」に分類。古い歳時記を読む楽しみの一つは、当該項目の解説に、発刊されたころの時代性を感じることだ。掲句を例句として掲げた新潮文庫版(初版・1951年)には、こうある。「夏着るシャツの一種。派手な模様のある半袖シャツで、裾を短くズボンの上に垂らして着る。ホノルルの中国人が発案し、ハワイで流行したのがアメリカにも移り、戦後日本に入ってきた。若者たちは夏になると盛んに愛用し、また家庭着、海辺着としても人気を博している」。戦後間もなくの記述のようだが、着方まで書いてあるところが微笑ましい。多くの人はまだ、写真や映画では知っていても、実物を見たこともなかったころだったのだろう。実際、私がアロハの実物を初めて見たのも、ずいぶん遅かったような記憶がある。そんな流行の最先端をいっていたアロハを、若者ならぬ定年を迎えた作者が着ている。いま読むとたいした句には思えないけれど、当時はこのことだけでも「おっ」と思わせたにちがいない。もはや「無位(むい)」となった身のせいせいした様子が、まことに涼しそうに伝わってくる。男が派手なシャツを着るなどは、まだ世相に馴染まなかった時代でもあったから、作者は相当に気が若い。と何気なく書いたところで、はっと気がついた。今でこそ定年は六十歳くらいだが、昔は五十歳から五十五歳が普通だったことに……。つまり、作者の実年齢は五十代前半だということになり、現今の定年者よりもだいぶ若かったわけで、となると掲句のイメージをどう修正したらよいのか。よくわからなくなってきた。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫改訂版)所載。(清水哲男)


July 2472005

 蝉時雨一分の狂ひなきノギス

                           辻田克巳

ノギス
語は「蝉時雨(せみしぐれ)」で夏。近着の雑誌「俳句」(2005年8月号)のグラビアページに載っていた句だ。作者の主宰する「幡」15周年を祝う会が京都であり、その集合写真に添えられていた。私は俳人にはほとんど面識がないこともあり、こういうページもあまり見ないのだが、たまたま面白いアングルからの写真だったので目が止まったというわけだ。最前列の中央の作者からなんとなく目を流していたら、いちばん右側に旧知の竹中宏(「翔臨」主宰)が写っていて、懐かしいなあとしばし豆粒のような彼の顔を眺めていた。まあ、それはともかく、この「ノギス」もずいぶんと懐かしい。簡単に言えば、物の長さを測定する道具だ。外径ばかりではなく、段差やパイプの内径とか深さなども測れる。父親が理工系だった関係から、ノギスだの計算尺だの、あるいは少量の薬品などの重さを量る分銅式の計量器だのが、子供の頃から普通に身辺にあった。それらを私はただ玩具のように扱っただけだけれど、どういうものかは一応わかっているつもりだ。蝉の声が降り注ぐ工場か、あるいは何かの研究室か。ともかく暑さも暑し、注意力や集中力が散漫になりがちな環境のなかで、作者(だと思う)は「一分の狂ひ」もないノギス(精度は0.05ミリないしは0.02ミリ)を使って仕事をしている。測っていると、汗が額や目尻に浮かんでくる。それを拭うでもなく、一点に集中している男の顔……。変なことを言うようだが、「カッコいい」とはこういうことである。良い句だなあ。(清水哲男)


July 2572005

 艶めくや女男と冷蔵庫

                           村岸明子

語は「冷蔵庫」で夏。むっ、こりゃ何だ。ぱっと読んだだけでは、わからなかった。雑誌などでたくさんの句を流し読んでいるうちに、そんな思いで目に引っかかってくる作品がある。わからないのなら飛ばしてしまえばよいものを、気にかかったまま次へと読み過ごすのも癪なので、たいていはそこで立ち止まって考える。そんな性分だ。いや、損な性分かな。掲句もその一つで、しばし黙考。なかなか解けないので、煙草に火をつける。と、やがて紫煙の向うから、この女と男の情景がぼんやりと姿を現してきた。そうか、そういうことなのか……。なるほど「艶めく」はずである。現われた情景は、電化製品売り場だった。そこで、若いカップルが「冷蔵庫」を選んでいる。ただそれだけの図なのだが、通りかかった作者には、その「女」が妙に艶めいて見えたのだった。これがたとえば書籍売り場だったりしたら、そういうふうには見えないだろう。冷蔵庫は、生活のための道具である。つまり、生活の匂いがある。それを二人で選んでいるということは、二人が同じ家で共に暮らそうとしているか、既に暮らしている事を前提にしているわけだ。だから、他の場所だったら何気なく見逃してしまうはずの見知らぬ「女」に目が行き、表情の微細な「艶」までを読み取ったのである。冷蔵庫を二人で選ぶという行為には、公衆の面前ながら、そこからもう二人きりの生活がはじまっていると言ってもよい。女性が艶めくのも、当然といえば当然だろう。句として少々こなれが悪いのは残念だけれど、突いているポイントは鋭い。俳誌「貂」(2005年8月・第119号)所載。(清水哲男)


July 2672005

 昭和ヒトケタ夾竹桃は激流なり

                           富田敏子

語は「夾竹桃(きょうちくとう)」で夏。花期の長さは百日紅(さるすべり)に負けず劣らずで、秋になっても咲いている。とにかく頑健という印象が濃い。昔から毒性があると言われ(実際、強心作用のある物質を含むという)、一般家庭の庭などからは忌避されてきた。しかし、乾燥状態や排気ガスなどの公害物質にもめっぽう強いので、工場の周辺だとか高速道路脇などに多く植えられている。句の「昭和ヒトケタ」は、昭和の初年から九年までの生まれを指す。この世代はいちばん若い人でも、敗戦時には小学校(当時は「国民学校」の名称)の高学年であった。敗戦の意味もわかり、口惜しい思いもし、以後の混乱期の大変さを体感している。だから、この世代が夾竹桃の咲く季節になると必ず思い起こすのは、いまと変わらずピンクや白の花が咲き誇っていた往時のことどもだろう。まさに激動の時代、炎天下でのしたたる汗をこらえるようにして、数々の受苦をじっと耐え忍ぶしかなかった時代のあれこれのこと……。そういうことどもからすれば、群生する夾竹桃はただ単にそこに立って或る植物というよりも、むしろ激しく心をかき乱しに押し寄せてくる「激流」のようではないか。いや、激流そのものなのだ。この世代の人はみな、いまや七十代である。その七十代に、今年の夏もまた激流が押し寄せてきた。『ものくろうむ』(2003)所収。(清水哲男)


July 2772005

 銀座には銀座のセンス夏帽子

                           松本青風

語は「夏帽子」。麦わら帽、登山帽、パナマ帽など、夏用の帽子ならいずれでもよい。まだ帽子をかぶる人の多かったころの銀座の夏。思い思いの夏帽子をかぶった人が、行き交っている。作者自身もかぶっているのだろうが、人々の帽子姿を眺めているうちに、おのずから銀座という街に似合っている帽子とそうでないものとが判然としてきた。すなわち「銀座には銀座のセンス」というものがあるのだ。最新流行と称されるものや高価そうなものが、必ずしもこの街に似合うとは言えない。現在にも増して、昔の銀座は保守的な街だったから、そこでのセンスを身につけるためには、やはりそれなりの年期が必要だったろう。私の観察してきたところでも、銀座には発売中のファッション雑誌から抜け出てきたようないでたちの人は、まず登場してこない。そういう人たちは最初に新宿や澁谷などに出現し、彼らのファッションが相当にこなれてきた段階で、ようやく銀座にもぽつりぽつりと姿を現しはじめるのだ。むろん例外はいくらでもあるけれど、大筋はそういうところに収まってきている。そして銀座に限ったことではなく、どこの街にもそれぞれに固有のセンスがあるのは面白い。たとえば心斎橋には心斎橋の、博多に博多のセンスがあって、旅行者として街を歩いているとよくわかる。と同時に、旅先の街のセンスには、自分が他所者でしかないことを思い知らされるのでもある。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 2872005

 外寝する人に薄刃のごとき月

                           星野石雀

の句の季語は何かと問われたら、疑いもなく「月」と答える人が大半だろう。となれば、季節は秋だ。となれば、寒さが忍び寄ってくるような夜に「外寝する人」とは、いわゆるホームレスの人というイメージになる。そう捉えて解釈してもいっこうに構わないようなものだが、取り合わせがつきすぎていて、句としての深みには欠ける気がする。最初から、底が割れている感じだ。ところが実は、季語は月ではなくて「外寝(そとね)」なのである。夏の夜の蒸されるような家の中を避けて、縁側や庭先など外気のあたるところで寝ることだ。昼寝に対して、夜の仮眠という趣きである。となれば、句の解釈は大いに変わってくる。束の間の仮眠にせよ、作者が見ている外寝の人は、よく眠り込んでしまっているのだろう。折しも空には月がかかっていて、まるで「薄刃(うすば)」のように鋭利で不気味に写る。すなわち、太平楽にも地上でぐっすりと寝ている人に、いわば不吉な影が射している。このときに句全体が象徴しているのは、人がたとえどのような好調時であろうとも、すぐ近くにはたえずその人生を侵犯するような危険な要素が寄り添っているということではなかろうか。「知らぬが仏」ですめばそれに越したことはないけれど、いつかはわずかな無防備の隙を突かれてしまいかねない脆さを、私たちは有しているということだ。この「外寝」も死語になってしまったが、いくら何重かの鍵をかけて室内にこもろうとも、薄刃のごとき月は死ぬことはない。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


July 2972005

 蝿叩手に持ち我に大志なし

                           高浜虚子

語は「蝿叩(はえたたき)」で夏。いまの子供のほとんどは、もう蝿叩は知らないだろう。1956年(昭和三十一年)七月の句。この当時は、どこの家庭にも蝿叩は必ずあった。「五月蝿い」という言葉があるように、夏場は蝿に悩まされたものだ。そんな必需品が無くなったということは、住環境の衛生状態が良くなったことを示しているのだが、あんなに沢山いた蝿がいなくなるほどに生物界の生態系が崩れてきているとも言えるのではなかろうか。一概に喜んでいてよいものかどうか、素人の私には判断しかねるけれど……。それにしてもまた、虚子には蝿叩の句が多い。呆れるほどだ。ことに晩年に近づいてくるほど数は多く、夏の楽しみは避暑と蝿叩くらいしかなかったのかしらんと思えてしまうくらいである。「大志」もへったくれもあるものか。我は蝿叩を持ちて、日がな一日、憎っくき蝿を追い回すをもって生き甲斐とせむ。ってな、感じである。だから「用ゐねば己れ長物蝿叩」なのであって、常時蝿叩を手にしていた様子が彷佛としてくる。こういうのもある、「蝿叩にはじまり蝿叩に終る」。こうなるともう、蝿叩愛好家、蝿叩マニアの感があり、手にしていないと落ち着けなかったのにちがいない。武士が刀を手元に置いておかないと、なんとなく落ち着かなかったであろう、そんなような虚子にとっての蝿叩なのだった。もう一句、「新しく全き棕櫚の蝿叩」。「棕櫚」は「しゅろ」、嬉しそうだなア。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 3072005

 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀

                           高浜虚子

語は「明易し」で夏、「短夜」に分類。虚子の句日記を見ると、晩年に至るまで実にたくさん各地での句会に出ている。才能の問題は置くとして、私だったら、まず体力が持たないほどの多さだ。このことは、虚子の句を読むうえで忘れてはならないポイントである。すなわち、虚子の句のほとんどは、そうした会合で、つまり人との交流のなかで詠まれ披露(披講)されてきたものだった。詩人や小説家のように、ひとり物言わず下俯いて書いたものではない。したがって、句はおのずから詠む環境からの影響を受け、あるいはその場所への挨拶や配慮などをも含むことになるわけだ。さらには、その場に集っている人々の職業や趣味志向などとも、微妙にからみあってくる。すなわち、詠み手はあくまで虚子ではあっても、俳句は詩や小説の筆者のような独立した個我の産物とは言えないわけだ。だから、そのあたりの事情を完全に見落としていた桑原武夫に文句をつけられたりしたのだけれども、極端に言うと俳句はその場の人々と環境との合作であると言ってもよいだろう。掲句は、寺に泊まり込んでの「稽古会」での作品だ。寺だから、それでなくとも朝は早くて一層の「明易や」なのであり、「南無阿弥陀」の念仏はつきものである。そのなかに、自分が頑強に主張してきた「花鳥諷詠」を放り込んでみると、面白いことになった。生真面目に取れば花鳥諷詠は崇高な念仏と同等になり、「なんまいだー」とおどけてみれば花鳥諷詠もしょぼんと気が抜けてしまう。披講の際に、この「南無阿弥陀」はどう発音されたのだろうか。常識的には後者であり、みんなはどっと笑ったにちがいない。その笑いで詠み手は大いに満足し、そこで俳句というものはいったん終わるのである。これが俳諧の妙なのであるからして、この欄での私のように、単にテキストだけを読んで句を云々することは、俳諧的にはさして意味があることではないと言えよう。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 3172005

 力無きあくび連発日の盛り

                           高浜虚子

語は「日の盛り(日盛)」で、もちろん夏。さて、本日で虚子三連発。句のあまりのくだらなさに、当方も「あくび連発」。作者もまた、良い句などとは露思っていなかったろう。思っていないのに、何故こういう句を作って人前に出す気持ちになったのだろうか。駄句として一蹴してしまうのは容易いし、私もそうしかけたのだが、しかし名句よりも駄句のほうに、その人の本質がよく見えるということはあるだろう。掲句に限らず、初心者でも作らないような駄目な句を、虚子はあちこちで平気で詠んでいる。これは、はじめから意図的なのですね。確信犯です。子規亡き後、碧梧桐の「新傾向」でなければ夜も日も明けなかった俳壇のなかにあって、虚子が碧梧桐を批判した有名な文章がある。その一節に、曰く。「尚碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」。このときに、虚子はまだ二十代。碧梧桐の才気を認めないわけではなかったが、それだけでは駄目だと言い放っている。人間、才気だけで生きているわけじゃない。誰にだって、ヌーボーとした側面はあるのだから、そのあたりを捉えることなしにすますようなことでは、何のための表現なのかわからない。掲句は晩年の作だが、若き日の初心を貫いているという意味では、珍重に値する一句と言ってもよいのではなかろうか。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます