今宵はアーサー・ビナードと池袋ジュンク堂で対談。題して「詩と俳句ぽこりぽこり」。




2005ソスN7ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0272005

 夜店より呼びかけらるることもなし

                           大串 章

語は「夜店」で夏。夜店を「冷やかす」と言う。とくに何かを買うというのではなく、ぶらぶらと見て回りながら、その雰囲気を楽しむ。店の人と軽口を叩き合うのも楽しい。作者も冷やかして歩いている。「呼びかけら」れれば、冗談口の一つや二つは交わすつもりでいたのに、しかし「呼びかけらるることもなし」に終わってしまった。思い返せば今宵に限らず、いつだってそうだったなあという苦笑まじりの感慨がわく。私も、呼びかけられないクチだ。不思議なもので、逆にいつも「シャチョーッ」だの「オニーサン」だのと声をかけられる友人もいる。夜店の人からすれば、呼びかけやすいタイプとそうでないタイプの人があるのだろう。たとえ買ってくれそうにはなくても呼びかけて、その場の雰囲気を盛り上げてくれる客が直感的にわかるのだ。そういえば、放送の仕事での街頭インタビューでもそうだった。そのときの私は夜店の主人の立場にあったわけだが、だんだん経験を積んでゆくうちに、マイクを向けても大丈夫な人と駄目な人とが見た目でわかるようになってきた。駄目そうだなと思った人は、まずたいていが何も言ってくれない。たとえしゃべってくれても、面白くなかったり要領を得なかったりする。したがってこちらも能率を考えるから、呼びかけやすいタイプの人だけに近づくことになってしまう。これは何も私に限った話ではなく、ほとんどのインタビュアーやディレクターがそうしているはずだ。テレビやラジオのインタビューに答えている人は、いかにも一般の声を代表しているように聞こえるが、実は一般の人のほんの一部しか代表していない理屈になる。『大地』(2005)所収。(清水哲男)


July 0172005

 暇乞い旁百合を嗅いでいる

                           池田澄子

語は「百合」で夏。「旁」は「かたがた」。玄関先だろうか。「暇(いとま)乞い」に訪れた人が、たまたまそこに活けてあった「百合を嗅いでいる」。百合を嗅ぐ行為と暇乞いとは何の関係もないのだけれど、ほとんどの読者はこの情景を、ごく自然なものとして受け入れるだろう。訪ねてきた人を変わった人だなどとは、まず思わない。それはおそらく、シチュエーションは違っても、私たちは日常的にこの種の行為を自分で繰り返したり目撃したりしているからだと思う。何かをする「旁」、ほとんど無意識的に目的とは無関係な行為をプラスするのだ。何故だろうか。……と問うほうが実は変なのであって、人間は合目的的な行為だけを選択し実践しているわけじゃない。合理の世界から言えば、むしろ無駄な行為を多く実践することによって、人はようやく合理に近づけるのではなかろうか。句の人の合理は、むろん暇乞いにある。が、暇乞いとは通常別れ難い感情を内包しているから、単に事務的に口上を述べればよいというものではない。いくら言葉で別れ難さを表現したとしても、口上では表現できない感情の部分が残ってしまう。何かまだ、相手には伝え足りない。落ち着かない。そんな思いが、突然百合の香を嗅ぐという非合理的な行為につながった。心理学者じゃないので、当てずっぽうに言ってみているだけだが、これも人情の機微の不思議なところで、その一瞬を逃さずに詠んだ作者の目は冴えに冴えているとしか言いようが無い。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


June 3062005

 三つ矢サイダーきやうだい毀れやすきかな

                           奥田筆子

語は「サイダー」で夏。「サイダー」といえば「三つ矢」。正確には「三ツ矢」だが、かれこれ120年の歴史を持つ。昔は現在のように一人用の容器ではなく、大きな瓶に入っていたので、家族で注ぎ分けて飲んだものだ。作者はいま、独りで飲んでいる。飲みながら、サイダーを好んだ子供の頃を思い出している。そして、あんなにも仲良く分け合って飲んだ「きやうだい(兄弟姉妹)」とも、すっかり疎遠になってしまっていることを、何か夢のように感じているのだ。むろん寂しさもあるが、親密な関係があまりにもあっけなく「毀れ(こわれ)」てしまったことへの不思議の気持ちのほうが強いのではあるまいか。日盛りのなかのサイダー。いわば向日的な明るい飲み物であるだけに、「きやうだい」間にどんな事情があったにせよ、疎遠になってからの来し方が信じられないほどの昏さを伴って思い返されるのである。別の作者で、もう一句。「サイダーに咽せて疎遠になる兆し」(平山道子)。相手との会話が、いまひとつ弾まないのだろう。咽(む)せたくて咽せたわけではなかろうが、しかし心のどこかでは、気まずい雰囲気をとりつくろうために咽せたような気もしている。そんな作者に、相手は「だいじょうぶ?」と声をかけるでもなく……。相手は同性だと見た。これまた明るい飲み物を媒介にして、昏さを無理無く引き出している。以上、サイダー受難の二句であります。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・夏』(2004)所載。(清水哲男)




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