仕事前にちょっと昼寝のつもりが夕方まで寝てしまう。ヤバい。さあ「汚名挽回」(笑)。




2005ソスN7ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1472005

 少年の夏シャツ右肩裂けにけり

                           中村草田男

語は「夏シャツ」。といってもいろいろだが、この場合は下着としての白いシャツだろう。昔はTシャツなんぞという洒落たものはなかったので、暑い日中はたいてい下着のシャツ一枚で遊び回っていたものだ。そんなシャツ姿の少年の右肩のところが裂けている。何かに引っ掛けた拍子に裂けたのか、喧嘩でもしてきたのか。「裂けにけり」と句は現在完了形で、いかにも作者の眼前で裂けたかのような書きぶりだが、実際にはもう既に裂けていて、あえてこうした表現にしたのは、裂け方の生々しさを強調したかったからだ。このときの少年の姿は、単なる悪ガキのイメージを越えて、子供ながらにも精悍な男の気合いを感じさせている。とにかく、カッコウがよろしいのである。いましたね、昔はこういう男の子が……。ところで下着のシャツといえば、現在の普段着であるTシャツも、元来はGI(米兵)専用の下着だったことをご存知だろうか。まだ無名だった若き日のマーロン・ブランドが、『欲望という名の電車』のリハーサルに軽い気持ちでそれを着ていったところ、エリア・カザンが大いに気に入り本番でも採用することにした。で、映画は大ヒットし、昨日までの下着が、以来外着としての市民権を得ることになったというわけである。ほぼ半世紀前、1947年のことだった。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


July 1372005

 鹽味のはつたい新刊の書を膝に

                           赤城さかえ

語は「はつたい(はったい)」で夏、「麦こがし」に分類。「はったい」は京阪神での呼び名のようだ。麦を炒って細かく挽き、粉にしたもの。砂糖を加えてそのまま食べたり、湯に溶いて食べたりする。いまでも探せば売っているらしいが、日常的にはなかなか見かけなくなった。掲句は、砂糖がまだ貴重品で高価だった時代のものだ。戦後間もなくの頃だろう。どれくらい貴重だったかについては、子供だった私にも鮮明な記憶がある。来客があると、いわゆるお茶うけに、菓子がわりに単なる砂糖を出したものだった。半紙の上に小さく盛られた砂糖の山を、大の大人がありがたくぺろぺろと舐めていたのだから、今ではちょっと信じられない光景である。それを横合いから、舐めさせてもらえない子供が恨めしそうに盗み見している……、そんな時代だった。だから本来は砂糖を入れるべき「はったい」に、「鹽(しお・塩)」をかけて食べたとしても、そんなに珍しい食べ方というわけではない。これまた、私にも体験がある。もちろん美味くはないけれど、作者の場合には、そんなことよりも膝の上に置いた「新刊の書」への期待で胸が高鳴っている。すなわち、彼は砂糖を購うことよりも、その代金を節約して新刊書を求めたというわけで、心中は意気軒昂。さながら「武士は食わねどナントヤラ」の気概に、一脈通じる趣のある句だ。この時代に、逆に私の父は家族の食のために、全ての本を売り払った。今年は敗戦後六十年、複雑な思いが去来する。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


July 1272005

 月下美人しぼむ明日より何待たむ

                           小島照子

語は「月下美人」で夏。その豪華な姿から「女王花」とも言われる。夜暗くなってから咲きはじめ、朝になるまでにしぼんでしまうところが、なんとも悩ましい。育ててもなかなか咲いてくれないようで、私なども一度だけしか見たことがない。そんな具合だから、いざ今夜には咲きそうだとなると大変だ。友人知己や近所の人に声をかけるなどして、ちょっとした祝祭騒ぎとなる。「月下美人呼ぶ人来ねば周章す」(中村汀女)なんてことにもなったりする。で、そんなにも楽しみに待っていた花も、あっけなくしぼんでしまった。しぼんだ花を見ながら、作者は「明日より何待たむ」と意気消沈している。大袈裟な、などと言うなかれ。それほどまでに作者は開花を楽しみにしていたのだし、これに勝る楽しみがそう簡単に見つかるとは思えない……。作者の日常については知る由もないけれど、高齢の方であれば、なおさらにこうした思いは強くわいてくるだろう。私にもだんだんわかってきたことだが、高齢者が日々の楽しみを見つけていくのは、なかなかに難しいことのようである。時間だけはたっぷりあるとしても、身体的経済的その他の制約が多いために、若いときほどには自由にふるまえないからだ。言い古された言葉だが、日々の「砂を噛むような現実」を前に、作者は正直にたじろいでいる。この正直さが掲句の味のベースであり、この味わいはどこまでも切なくどこまでも苦い。俳誌「梟」(2005年7月号)所載。(清水哲男)




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