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July 2172005

 親ひとり子ひとり林間学校へ

                           山県輝夫

語は「林間学校」で夏。最近では「サマースクール」と言っているようだ。夏休みの数日間をを利用して、都会の子供たちが高原や海岸など自然豊かな土地で過ごす。勉強もするが、登山やハイキング、あるいは風呂を沸かしたり食事を作るなど、どちらかといえば規則正しい生活と健康増進がねらいの「学校」だ。明治期に外国の影響ではじめられたのだが、当時は身体虚弱な子供のための転地療養的な意味合いが濃かったという。さて、掲句の「子」は、はじめて親元を離れるのだろう。「親ひとり」の「親」は作者のはずだから、父親である。子供のほうは無邪気に喜々としているのだけれど、送り出す父親としてはいささかの不安がつきまとう。現地でのことにさして心配はないとしても、タオルや歯ブラシからはじまって着替えなど必要なものの準備は整っているのか、万一熱でも出した場合の薬類は持たせるべきなのか、等々の不安だ。すなわち、母親だったら簡単に常識的に片付けられるもろもろの準備が、男親ゆえに気がつかないところがあるのではないのかと、子の出発ぎりぎりまで心配なのである。参加者に配られたパンフレットを、子供が寝た後で何度もチェックしている作者の姿が目に浮かぶ。こんなに読者をも巻き込んで、はらはらさせる句も、そうめったにあるものではない。『俳句歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0882010

 熱出す子林間学校一日目

                           林 和子

だまだ貧しい時代に学生だった私には、修学旅行以外に旅行などに行く機会はありませんでした。長い夏休みも、だから基本的にはなにもやることもなく、毎日ごろごろしていた記憶があります。それでもどういった加減か、中学一年生のときに一度だけ、林間学校へ行かせてもらったことがあります。今考えれば、親もたくさんの子供を抱えて生活も大変だったろうに、よくそんなお金を出してくれたものだなと、ありがたくも思い出すのです。たった一度の林間学校だから、今でも鮮明に八ヶ岳に登ったことを覚えています。旅行の前の数日間は、待ち遠しくて仕方がなく、どうしてこんなに楽しいことが自分の人生に起こるのだろうと、わくわくしていました。おそらく繊細な感受性の子供であったなら、本日の句のように、そんなときにはなぜか熱などを出して楽しみも台無しになってしまうのでしょうが、生来鈍感なわたしは、幸せをそのまま欠けるところもなく、まるごと受け取ることができたのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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