Vn句

July 2272005

 極東の小帝国の豆御飯

                           上野遊馬

語は「豆御飯(豆飯)」で夏。グリーンピース入りが、いちばん美味いかな。と思ったところで、掲句の仕掛けがするするっと解けた(ような気がする)。「極東の小帝国」とは、むろん他ならぬ私たちの暮らす日本国のことだ。大日本帝国が破綻して、今年で六十年。理想的な民主主義的平和国家建設を目指していたはずが、気がつけばご覧の通りのていたらく。イラクに自衛隊を派遣常駐させ、国連安保理常任理事国入りへ血道をあげている姿は、その姑息なやり口に照らして、帝国は帝国でも未だ「小」の範疇でしかないのだろう。憲法を改定せよとの動きも、また然り。このときに「極東」という方位は欧米からの位置づけだから、この小帝国という評価も単に作者一個人の判断を越えて、国際的な視野からのそれであることを暗示している。そんな広い視野から現今の日本をつらつら眺めてみると、もはや平和国家は骨抜き寸前であり、実質的な「ピース」はわずかに豆御飯のなかくらいにしかないのではないかとすら思われてくる。厳密に言えば、平和の"peace"とグリーンピースの"peas"とは綴りが違うけれども、日本語の表記は同一だ。さらに"peace like peas"と取れば、いっそう皮肉がきつくなる。以上、……とは書いてみたものの、作句意図とはまったく違っているかもしれぬという不安は残る。間違ってしまったとすれば、敗戦後六十年にこだわるあまりの昨今の私の心情のせいにちがいない。他の解釈があれば、ヒントなりともご教示を願いたい。俳誌「翔臨」(2005年7月・第53号)所載。(清水哲男)


July 2372007

 割り算の余りの始末きうりもみ

                           上野遊馬

でもそうだろうが、苦手な言葉というものがある。私の場合は、掲句の「始末」がそうである。辞書で調べると、おおまかに四つの意味があって、次のようだ。(1)(物事の)しめくくりを付けること。「―を付ける」(2)倹約すること。「―して使う」(3)結果。主として悪い状態についていう。「この―です」(4)事の始めから終わりまで。……ところが私には、どうも(2)の意味がしっくり来ない。そのような意味で使う地方や環境にいなかったせいだと思う。小説などに出てくると、しばしば意味がわからずうろたえてしまう。この句の「始末」も(2)の意味なのだろう。が、一読、やはり一瞬うろたえた後で、やっと気がつき、はははと笑うような「始末」であった。要するに「きうりもみ」は、「割り算の余り」の部分を「倹約」したような料理だということのようだ。どうしても割り切れずに余った部分は、紙の上の割り算であれば放置することも可能だけれど、それでもそれこそ割り切れない思いは残るものである。ましてや、現実の食べ物であるキュウリにおいておや。ならば、他の料理の使い余しのキュウリは、「始末」良く「きうりもみ」にして食べてしまおう。そう思い決めて、せっせと揉んでいるところなのである。「(胡)瓜揉み」なる夏の季語があるほどに、昔は一般的な料理だったが、いまの家庭ではどうなのだろうか。あまり作らないような気もするが、むろんこれは掲句と関係のない別の問題だ。俳誌「翔臨」(第59号・2007年6月)所載。(清水哲男)




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