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July 2872005

 外寝する人に薄刃のごとき月

                           星野石雀

の句の季語は何かと問われたら、疑いもなく「月」と答える人が大半だろう。となれば、季節は秋だ。となれば、寒さが忍び寄ってくるような夜に「外寝する人」とは、いわゆるホームレスの人というイメージになる。そう捉えて解釈してもいっこうに構わないようなものだが、取り合わせがつきすぎていて、句としての深みには欠ける気がする。最初から、底が割れている感じだ。ところが実は、季語は月ではなくて「外寝(そとね)」なのである。夏の夜の蒸されるような家の中を避けて、縁側や庭先など外気のあたるところで寝ることだ。昼寝に対して、夜の仮眠という趣きである。となれば、句の解釈は大いに変わってくる。束の間の仮眠にせよ、作者が見ている外寝の人は、よく眠り込んでしまっているのだろう。折しも空には月がかかっていて、まるで「薄刃(うすば)」のように鋭利で不気味に写る。すなわち、太平楽にも地上でぐっすりと寝ている人に、いわば不吉な影が射している。このときに句全体が象徴しているのは、人がたとえどのような好調時であろうとも、すぐ近くにはたえずその人生を侵犯するような危険な要素が寄り添っているということではなかろうか。「知らぬが仏」ですめばそれに越したことはないけれど、いつかはわずかな無防備の隙を突かれてしまいかねない脆さを、私たちは有しているということだ。この「外寝」も死語になってしまったが、いくら何重かの鍵をかけて室内にこもろうとも、薄刃のごとき月は死ぬことはない。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 1562007

 老婆外寝奪はるべきもの何もなし

                           中村草田男

婆だから「奪はるべきもの」がない、乙女ならあるのかと読むと、そこまで言うかという気になるが、この句の狙いはそんな卑俗なところにはないことにやがて気づいた。この句は本来の裸の人間が持っている天賦の聖性について言っているのだろう。飼っている犬が食べ物をねだるとき、喜ぶとき、糞尿をするとき、ふと聖なる存在を感じるのと同じ。羞恥心も遠慮もない赤裸々な姿が、逆に我等人間のひねくれ方を映し出す。理知なるものがいかに人間の聖性を侵食したかを教えてくれるのだ。赤ん坊が大人につきつける聖性も同様。人間の原初の在り方を草田男は一貫して問うている。そういう一貫した思想を俳句の中に盛ろうとすれば表現は通常観念色、説教色に染まるものだが、草田男はそうならない。外寝という季題を配して現実的な風景のリアリティを構成する。虚子門草田男が、最後まで「写生」を肯定していた所以である。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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