寝苦しい夜。目が覚めてしまうと、何故かその夜の阪神の得点経過を反芻する癖がある。




2005ソスN7ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3072005

 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀

                           高浜虚子

語は「明易し」で夏、「短夜」に分類。虚子の句日記を見ると、晩年に至るまで実にたくさん各地での句会に出ている。才能の問題は置くとして、私だったら、まず体力が持たないほどの多さだ。このことは、虚子の句を読むうえで忘れてはならないポイントである。すなわち、虚子の句のほとんどは、そうした会合で、つまり人との交流のなかで詠まれ披露(披講)されてきたものだった。詩人や小説家のように、ひとり物言わず下俯いて書いたものではない。したがって、句はおのずから詠む環境からの影響を受け、あるいはその場所への挨拶や配慮などをも含むことになるわけだ。さらには、その場に集っている人々の職業や趣味志向などとも、微妙にからみあってくる。すなわち、詠み手はあくまで虚子ではあっても、俳句は詩や小説の筆者のような独立した個我の産物とは言えないわけだ。だから、そのあたりの事情を完全に見落としていた桑原武夫に文句をつけられたりしたのだけれども、極端に言うと俳句はその場の人々と環境との合作であると言ってもよいだろう。掲句は、寺に泊まり込んでの「稽古会」での作品だ。寺だから、それでなくとも朝は早くて一層の「明易や」なのであり、「南無阿弥陀」の念仏はつきものである。そのなかに、自分が頑強に主張してきた「花鳥諷詠」を放り込んでみると、面白いことになった。生真面目に取れば花鳥諷詠は崇高な念仏と同等になり、「なんまいだー」とおどけてみれば花鳥諷詠もしょぼんと気が抜けてしまう。披講の際に、この「南無阿弥陀」はどう発音されたのだろうか。常識的には後者であり、みんなはどっと笑ったにちがいない。その笑いで詠み手は大いに満足し、そこで俳句というものはいったん終わるのである。これが俳諧の妙なのであるからして、この欄での私のように、単にテキストだけを読んで句を云々することは、俳諧的にはさして意味があることではないと言えよう。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 2972005

 蝿叩手に持ち我に大志なし

                           高浜虚子

語は「蝿叩(はえたたき)」で夏。いまの子供のほとんどは、もう蝿叩は知らないだろう。1956年(昭和三十一年)七月の句。この当時は、どこの家庭にも蝿叩は必ずあった。「五月蝿い」という言葉があるように、夏場は蝿に悩まされたものだ。そんな必需品が無くなったということは、住環境の衛生状態が良くなったことを示しているのだが、あんなに沢山いた蝿がいなくなるほどに生物界の生態系が崩れてきているとも言えるのではなかろうか。一概に喜んでいてよいものかどうか、素人の私には判断しかねるけれど……。それにしてもまた、虚子には蝿叩の句が多い。呆れるほどだ。ことに晩年に近づいてくるほど数は多く、夏の楽しみは避暑と蝿叩くらいしかなかったのかしらんと思えてしまうくらいである。「大志」もへったくれもあるものか。我は蝿叩を持ちて、日がな一日、憎っくき蝿を追い回すをもって生き甲斐とせむ。ってな、感じである。だから「用ゐねば己れ長物蝿叩」なのであって、常時蝿叩を手にしていた様子が彷佛としてくる。こういうのもある、「蝿叩にはじまり蝿叩に終る」。こうなるともう、蝿叩愛好家、蝿叩マニアの感があり、手にしていないと落ち着けなかったのにちがいない。武士が刀を手元に置いておかないと、なんとなく落ち着かなかったであろう、そんなような虚子にとっての蝿叩なのだった。もう一句、「新しく全き棕櫚の蝿叩」。「棕櫚」は「しゅろ」、嬉しそうだなア。『虚子五句集・下』(1996・岩波文庫)所載。(清水哲男)


July 2872005

 外寝する人に薄刃のごとき月

                           星野石雀

の句の季語は何かと問われたら、疑いもなく「月」と答える人が大半だろう。となれば、季節は秋だ。となれば、寒さが忍び寄ってくるような夜に「外寝する人」とは、いわゆるホームレスの人というイメージになる。そう捉えて解釈してもいっこうに構わないようなものだが、取り合わせがつきすぎていて、句としての深みには欠ける気がする。最初から、底が割れている感じだ。ところが実は、季語は月ではなくて「外寝(そとね)」なのである。夏の夜の蒸されるような家の中を避けて、縁側や庭先など外気のあたるところで寝ることだ。昼寝に対して、夜の仮眠という趣きである。となれば、句の解釈は大いに変わってくる。束の間の仮眠にせよ、作者が見ている外寝の人は、よく眠り込んでしまっているのだろう。折しも空には月がかかっていて、まるで「薄刃(うすば)」のように鋭利で不気味に写る。すなわち、太平楽にも地上でぐっすりと寝ている人に、いわば不吉な影が射している。このときに句全体が象徴しているのは、人がたとえどのような好調時であろうとも、すぐ近くにはたえずその人生を侵犯するような危険な要素が寄り添っているということではなかろうか。「知らぬが仏」ですめばそれに越したことはないけれど、いつかはわずかな無防備の隙を突かれてしまいかねない脆さを、私たちは有しているということだ。この「外寝」も死語になってしまったが、いくら何重かの鍵をかけて室内にこもろうとも、薄刃のごとき月は死ぬことはない。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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