道一つ隔てた民家が解体中。年内に新しい家を建てるんだな。しばらく騒音が頭痛の種。




2005ソスN8ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2982005

 石段に初恋はまだ赤のまま

                           つぶやく堂やんま

語は「赤のまま」で秋、粒状の紅色の花を赤飯(赤の「飯」)になぞらえた命名だ。「犬蓼(いぬたで)」に分類。今年も「石段」の周辺に、「赤のまま」が咲く季節になった。神社か寺院かに通じている道だろう。昔ながらに風に揺れている「赤のまま」を見ていると,往時の初恋の思い出が懐かしくも鮮明によみがえってくる。その鮮明さを表現するのに、「赤のまま」の「まま」を「飯」ではなく、「儘」と洒落たわけだ。恋ゆえに、赤い記憶が冴えてくる。初恋の相手が当時の「まま」に、いまにも石段を下りてきそうではないか。むろん相手のこともそうだけれど、純情だったころの自分のことをもまた、作者はいとおしく思い出しているのである。言葉遊びが仕掛けられているが,無理の無い運びが素敵だ。私の「赤のまま」の記憶は,次の歌に込められている。「♪小鳥さえずる森陰過ぎて、丘にのぼれば見える海、晴れた潮路にけむり一筋、今日もゆくゆくアメリカ通いの白い船」。中学一年のときの学芸会で,憧れの最上級生がうたった歌だ。おそらくそのころの流行歌だろうと思われるが、タイトルは知らない。だが、半世紀以上経ったいまでもこのように歌詞を覚えているし,節をつけてちゃんと最後まで歌える。丘にのぼったって海など見えっこない山奥の村には、どこまでも「赤のまま」の道がつづいているばかりなのであった。『つぶやっ句 龍釣りに』(2005・私家版)所収。(清水哲男)


August 2882005

 大瀑布ひとすじ秋の声を添ふ

                           篠田悌二郎

語は「秋の声」。ものの音、ものの気配に秋をききつけるのである。心で感じとる秋の声だ。「瀑布(ばくふ)」は滝のことだが、作者は大きな滝の落ちる「音」に「秋の声」を聞き取ったのではあるまい。日は中天にあって,なお真夏のように暑いのだけれど、滝に見入っているとどことなく秋の気配が感じられたということだろう。「ひとすじ」とあるが、これもまた具体的な滝の一部を指しているのではなく、「秋の声」のかすかな様子を表現している。「ひとすじ」「添ふ」の措辞が、非常に美しい。ところで歳時記をめくると、この「秋の声」は「天文」の部に分類されている。私などはむしろ「時候」の部に入れたほうがよいのではと思うのだが,なぜ「天文」なのだろうか。こうした分類法が合理的でないと言ったのは,俳句もよくした寺田寅彦であった。「今日の天文學(アストロノミー)は天體、即、星の學問であつて氣象學(メテオロヂー)とは全然其分野を異にして居るにも拘らず、相當な教養ある人でさへ天文臺と氣象臺との區別の分らないことが屡々ある。此れは俳諧に於てのみならず昔から支那日本で所謂天文と稱したものが、昔のギリシャで「メテオロス」と云つたものと同樣『天と地との間に於けるあらゆる現象』といふ意味に相應して居たから、其因習がどうしても拔け切らないせゐであらう」(随筆「俳句と天文」)。すなわち、歳時記の分類法は科学的にはすこぶる曖昧なのだ。最近、歳時記の季節的分類の矛盾(たとえば「西瓜」や「南瓜」を秋季とするような)を修正する動きが出て来たが、もう一歩進めて、こちらの分類法も考えなおしてほしいものだ。せっかくの分類も、分りにくくては話にならない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 2782005

 ちらつく死さへぎる秋の山河かな

                           福田甲子雄

年の四月に亡くなった作者が、昨秋の入院時に詠んだ句である。こういう句は、観念では作れない。胃のほとんどを切除するという大手術であったようだ。「切除する一キロの胃や秋夜更く」。掲句の「ちらつく死」はもとより観念ではあるけれど、そういうときだったので、より物質的な観念とでも言おうか、まったき実感としておのれを苛んだそれだろう。そうした実感,恐怖感を「秋の山河」が「さへぎる」と言うのである。このとき「さへぎる」とは、ちらつく死への思いを消し去るということではなく,文字通りに立ちふさがるという意味だろう。悠久の山河を目の前にしていると,束の間自分が死んでしまうことなどあり得ないような気がしてくる。昨日がそうであったように、今日もそしてまた明日も、自分の生命も山河のようにつづいていくかと思われるのだ。だが、山河は悠久にして非情なのだ。そんな一瞬の希望を、簡単にさえぎって跳ね返してくる。すなわち、山河を見やれば見やるほど,ちらつく死の思いはなおさらに増幅されてくるということだろう。怖い句だ。いずれ私にも,実感としてこう感じる時期が訪れるのだろうが、そのときに私は耐えられるだろうか。果たして,正気でいられるかどうか、まったく自信がない。そう考えると、あらためて作者の精神的な強さに驚かされるのである。合掌。遺句集『師の掌』(2005)所収。(清水哲男)




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