2005N9句

September 0192005

 秋風や壁のヘマムシヨ入道

                           小林一茶

ヘマムショ入道
存知でしたか、「ヘマムシヨ入道」。由緒正しいというのも変だけれど,これは江戸期の由緒正しい落書きの一つだ。現代人なら誰でも「へのへのもへじ(へへののもへじ)」の「文字絵」を知っているように,江戸時代の人にはおなじみの「絵」だったようである。「へのへのもへじ」が顔の正面をあらわしているのに対して、「ヘマムシヨ入道」は身体のついた横顔を表現している(図版参照)。そんな絵が壁に落書きされていても、べつに珍しいことではないはずなのだが、このときの作者はしばらく見入ってしまったのだろう。「秋風」に吹かれて、いささか感傷的になっていたのかもしれない。見つめているうちに、ちょっと気難しげな顔つきが気になってきて,この「入道」はいったいどんな人物なのだろうかなどと、いろいろと想像しているのではなかろうか。いずれにしても、何でもない落書きに目をとめたりするのは、四季のうちでも秋がもっとも似つかわしい。「秋思」という季語まであるくらいだ。文字絵に戻れば,「ヘマムシヨ入道」の発想はパソコン時代の顔文字やアスキー・アートに似ている。それらの元祖と言っても差し支えないだろう。だが、いつも不思議に思うのは、こういうことに西欧人はあまり関心がないらしい点だ。あちらのサイトをめぐっていても、顔文字などにはめったにお目にかかれない。何故なのだろうか。(清水哲男)


September 0292005

 露深し今一重つゝむ握り飯

                           盧 文

語は「露」で秋。江戸元禄期の無名の人の俳句を集めた柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に載っている句。「旅行」という前書がある。朝の早立ちだ。腰につけていく昼食用の「握り飯」をつつんでいるのだが、表をうかがうと、今朝はことのほか「露」が深く降りている。この露のなかを分けて歩いたら、相当に濡れそうだ。いつものつつみでは沁み通りそうなので,用心のために,いま「一重」余計につつんだと言うのである。私の子供の頃でもそうだったように,竹の皮を使ったのだろう。「露の深さ,草の深さに行きなずむというようなことは、句中にしばしば見る趣であるが、ただ裾をかかげたり、衣袂(たもと)を濡したりする普通の叙写と違って,握飯を今一重裹(つつ)むというのは、如何にも実感に富んでいる。昔の旅行の一断面は、この握飯によって十分に想像することが出来る」(宵曲)。たしかに、往時の旅行は大変だった。岡本綺堂の本を読んでいたら、昔の人はみんな旅が嫌いだったとはっきり書いてあった。そりゃそうだろう。どこに出かけるのも、基本的には徒歩なのだし、知らない土地の情報も薄いから、心細いこと限り無し。落語に出てくるような寺社詣でにことよせた物見遊山ならばまだしも、長旅には必ず水盃がつきものだったというのもうなずける。旅行が趣味という人が増えてきたのは,つい最近のことなのだ。隔世の感ありとは、このことだろう。(清水哲男)


September 0392005

 薔薇の酒薔薇の風呂もて持て成さる

                           高橋とも子

語は「薔薇」で夏。そのまんまの句なのだろうが、素材が尋常ではない。「薔薇の酒」「薔薇の風呂」とは、いったい何であろうか。知らないのは私だけかもしれないけれど、少年時代に、西欧の女優は牛乳風呂に入るのだそうなと聞いたときのような感じを受けた。その後しばらくして、マルティーヌ・キャロルの主演映画『浮気なカロリーヌ』を見たときに、ようやく納得した覚えがある。この映画、ストーリーとは関係なく、やたらに入浴シーンがあった。バスタブに湛えられた真っ白な液体の説明はなかったけれど、ひとり「ああ、これだな」と私は合点したものである。シャボンの泡だけでは、あの白さは出ないはずだ。そんな連想もあって,まず「薔薇の風呂」のおおよその見当はつき、念のためにとネットで検索してみたら、出てくるわ出てくるわ、知らなかったのはやはり私だけだったようだ。要するに、薔薇の花びらを浮かべた風呂であり、香りが良いらしい。ただ、野暮天としては,入った後の片付けが大変だろうなと、まずは思ってしまった次第だ。次なる「薔薇の酒」だが、どうやらこちらは知らなくても恥ではないようだ。見かけはワインだが、中味は日本酒という珍品だからだ。島根県の酒造会社が昨年,薔薇の花びらを日本酒に漬け込んで薔薇色を出すことに成功し,実験的に売り出したところ大いに売れたということだった。いずれにしても、薔薇づくしの「持て成し」とは豪勢な。そのまんまながら、むしろそのまんまに、句にとどめておきたかった作者の気持ちがわかるような気がする。俳誌「百鳥」(2005年9月号)所載。(清水哲男)


September 0492005

 鰯雲記憶は母にはじまれり

                           伊藤通明

語は「鰯雲(いわしぐも)」で秋。郷愁に誘われる雲だ。郷愁の行き着く先は幼少期だが、突き詰めていけば最初の記憶にまでさかのぼる。夢か現か、ぼんやりとしてはいるけれど、作者の記憶は「母」にはじまっていると言うのだ。どんな顔や姿で記憶された母の姿なのだろう。ミルクの匂いでもしてきそうな句だ。こういう句は、読者を誘惑する。「あなたの場合はどうですか」と、誘ってくる。私の最初の記憶は、何だったろうか。三島由紀夫は産湯のときから覚えていると書いたが、そんなにさかのぼれはしない。懸命に思い出してみるが、あれは何歳のときだったのか。たぶん、病気で寝かされていたのだろう。目覚めると夕暮れ近くで,表を通る豆腐屋のラッパの音が聞こえていた。部屋には誰もいなかったことや、その部屋が家の中のどの部屋だったかは思い出せる。そのときに「こうして寝ているのも気持ちがいいなあ」と思ったこともはっきりと……。四歳か五歳くらいだったのではあるまいか。ただし、記憶という奴はくせ者だから、これが最初の記憶だという保証はどこにもない。最初の記憶だとしても、豆腐屋のラッパがそのときのものだったのか、あるいは同じような状況が何度かあって、その都度の印象が複合されたものかもしれないのだからだ。つまり、記憶は太るものでもあれば、逆に痩せるものでもある。では、あなたの最初の記憶の場合は如何でしょうか。『西国』(1989)所収。(清水哲男)


September 0592005

 桔梗の二夫にまみえて濃紫

                           阿部宗一郎

語は「桔梗(ききょう、きちこう)」で秋。秋の七草の一つではあるが,実際には六月頃から咲きはじめる。昔は朝顔のことだったという説もあるので、秋の花の定説が生まれたのだろうか。ところで、掲句がすらりとわかった読者は、かなり植物に詳しい人である。わからなかった私は、百科事典などをひっくりかえして、ようやく納得。「二夫(にふ)」は二人の夫の意味で、儒教に「貞女二夫にまみえず」の教えがある。たとえ未亡人の身になっても再婚しないのが女の鑑(かがみ)というわけだが、「桔梗」の場合はそうはいかないのである。そんなことをしていたら、子孫が絶えてしまうからだ。少し説明しておくと,桔梗の雄しべは開花後にすぐ成長して花粉を放出する。雌しべは、その後でゆっくりと成長していく。つまり同一の花の雄しべと雌しべの交配を避ける(自家授粉しないための)仕組みであり、雌しべは常に他の花の雄しべの花粉で受精することになる。「雄ずい先熟」と言うのだそうだが、すなわち桔梗の雌しべは「二夫にまみえて」はじめて子孫を残すことができるというわけだ。桔梗というと、私などには清楚で凛とした花に見える。が、こうした生態を知っている作者には、その「濃紫」がどこかわけありで艶っぽく感じられると言うのだろう。今度実物に出会ったら、じっくりと眺めてみたい。『現代俳句歳時記』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 0692005

 選挙近し新米古米まぜて炊く

                           大元祐子

語は「新米」で秋。出回るには今年はまだ少し早いが、むろん掲句のような年もあるわけだ。「選挙」は国民の米櫃に関わる大事だから、「米」との取り合わせにはごく自然な感じを受ける。家計をあずかる主婦として、せっかくの「新米」なのでそれだけで炊きたいところを、残っている「古米」と「まぜて炊く」。少々水加減が難しそうだが(笑)、やりくりとはこういうことだ。一度や二度の「ぜいたく」くらいと思っていると,だんだんと家計のあちこちに赤字の穴が開いてしまう。それでなくとも増税のつづく世の中、ただ単に生きて呼吸しているだけで、年々の出費はかさばる一方である。今度の選挙では、果たしてどんな結果が出るのだろうか。主婦は主婦の立場から、理想的とまでは言わないまでも,それに近い政策を実行してくれる勢力の伸長を願いつつの炊事である。主婦は主婦の立場からといえば、私は高齢者の立場から、今度の選挙を見ている。見ざるを得ない。年金問題をはじめ、医療費やらその他の老人福祉問題を含めて、おおかたの党派は偽善的で冷淡だ。若い候補者などは、いつか自分も高齢者になることなど、まったく念頭にないかのようだ。高齢者であろうと、搾り取れる金は搾り取る。こんな考えが政治家に横行するようでは、早晩この国も衰退してしまうだろう。生きてて良かった。誰もが、素朴にそう思える社会になってほしい。『人と生れて』(2005)所収。(清水哲男)


September 0792005

 長き夜のシュークリームの貌つぶす

                           河内静魚

語は「長き夜」で秋、「夜長」に分類。秋の夜長、ひとり作者は無聊(ぶりょう)をかこっているのだろう。「シュークリーム」があったのを思い出し、食べることにした。皿の上に置いて食べかけたとき、ふとなんだか人の「貌(かお)」を「つぶし」ているような気がしたと言うのである。なるほど、そのように見えないこともない。普段ならそんなことは思いもせず食べてしまうのに、やはり長き夜の無聊の心がそう見させたのだろう。「顔をつぶす」と俗に言うが、人間ひとりで鬱々としていると、ざらざらと自棄的になっているせいで、少々残忍なイメージも浮かんでくるということか。そのこととは別に、掲句を読んで咄嗟に思ったのは、作者はどうやってシュークリームを食べているのかということだった。「つぶす」とあるから、かぶりついたのではない。スプーンかフォークか、何かを使ってつぶしている。私はそんな上品な食べ方をしたことはないが、とにかく食べにくい厄介な菓子だ。下手をすると、口の周りにべたべたとクリームがついてしまうし、たとえフォークを使ったとしても、今度は皿の上がクリームだらけになってしまいそうだ。本来は、どうやって食べるものなのだろう。なお「シュークリーム」は、フランス語「シュー・ア・ラ・クレーム」の「ア」と「ラ」が省略され、「クレーム」を英語読みして「シュークリーム」となった。「シュー」は皮を意味し、「クリーム入りのキャベツ」という意味だ。皮の形が(「貌」ではなく)キャベツに似ていることから名付けられたという。英語では「クリームパフ」。外国で「シュークリーム」と注文すると、靴墨が出てくるかもしれないのでご用心(笑)。『花鳥』(2002)(清水哲男)


September 0892005

 千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き

                           三橋鷹女

語は「蟲(虫)」で秋。たくさんの(千の)「蟲」が鳴いている。と、なかに「一匹」だけ、他の蟲とはまったく違う鳴き方をしているのがいる。どう聞いてみても,明らかに「狂ひ鳴き」だ。まことに哀れである。表面的にはこういう意味だろうが、これが作者晩年の句と知れば、年老いて至りついた一つの感慨と読みたくなる。このときに、実際に千の蟲は鳴いていたのだろう。だが、どこにも「狂ひ鳴き」の蟲なんぞはいはしなかった。いたとすれば、それは蟲ならぬ作者自身に他なるまい。人と生まれて人並みに生きてきたつもりだったが、振り返ってみると、そして今も、私ひとりだけはどうやら狂い鳴きの人生だったようだ……。俳誌「船団」に三宅やよいが連載中の「鷹女への旅」によれば、俳句では「人嫌いとも思える孤高を保っていた印象のある」彼女だったが、日常生活では「気遣いの行き届いた親切な人」であった。そのことを三宅は、鷹女の長男である三橋陽一の談話資料で裏付けている。鷹女の夫は歯科医だった。「内助の功というか、患者さんを大事にしましてね。よくお茶を出したりしてました。診察が終わると応接間でどうぞお話しくださいと、母がお茶を出したりとか。(中略)患者さんが来るとお茶を飲むのが普通なのかと思うくらいに」。詳しくは「船団」を見てほしいが、こうした側面ではまったき「千の蟲」であった人だ。だからこそ他方で孤高の俳人格を生きた自分が、日常と創作のはざまにあって、引き裂かれた人生を送ってきたと痛感しているのである。しかし、そのどちらもが本当の自分なのだ。そこが切なく、苦しい。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)


September 0992005

 重陽の穴ある三角定規かな

                           栗栖恵通子

語は「重陽(ちょうよう)」で秋。陰暦九月九日のこと。中国では奇数を陽数としたので、その陽数「九」が月にも日にもつくことからの命名だ。ちょうど菊の盛りの頃ということもあり、「菊の節句」とも言われる。掲句はこの言い伝えを踏まえて、たまたま机上にあったのか、そういえば「三角定規」の「三」も陽数だし,これも重陽のうちだなと面白がっているのだろう。三角定規は普通、45度角のものと60度角のものとが二枚でワン・セットになっている。ただしこれを重ねようとしても、形が違うのでぴったりとは重ならない。重なるところがあるとすれば、真ん中に開けられた丸い「穴」の部分のみだ。そこを重ねれば、見事に重陽となる。したがって、「穴ある三角定規」と「穴」を詠み込んだわけだ。ところで、三角定規の穴は何のために開けられているかをご存知だろうか。単なる装飾のためではない。まことしやかにいろいろと説明する人もいるようだけれど、あの穴は、三角定規で線を引くときに下の紙が動かないようにするためである。つまり、穴に指を入れて下の紙を押さえて使うという、極めて実用的な穴なのである。しかし、たいていの学校ではそういうことは教えないので、折角の穴も使われずじまいになっているのではあるまいか。どんな道具にも、基本的な使い方というものがある。読者のなかに小学校の先生がおられましたら、ぜひ子供たちに教えてやってください『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1092005

 かそけくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花

                           富田木歩

語は「鳳仙花(ほうせんか)」で秋。句は「病妹」二句のうち。「妹」は作者の末妹・まき子のことだから、この場合は「いも」ではなく「いも(う)と」と読むべきだろう。この句の前年作に「我が妹の一家のため身を賣りければ」と前書きした「桔梗なればまだうき露もありぬべし」がある。まき子は姉・富子の旦那・白井波吉の経営する向島「新松葉」の半玉となったが、翌年に「肺病」を患ってしまい、実家に戻された。その折りの句だ。貧困ゆえ、満足に医者にも診せられなかったに違いない。しかも作者は、この年の冬に弟の利助を同じ病いで失っている。したがって、妹の余命がいくばくもないこともわかっていただろう。荒い息に咽喉(のど)を鳴らしている彼女の姿を凝視するばかりで、何とか助けてやりたいのだが、何もしてやれない。そのもどかしさをそのままに、鳳仙花のはかない美しさを妹のそれに重ねあわせて詠むことにより、妹に対する心からの愛情と憐憫の情とが滲み出ている。それから間もなくして,彼女は逝った。享年十八。このとき二十一歳だった木歩の悲嘆は、いかばかりだったろうか。妹の死といえば、宮沢賢治の詩「永訣の朝」がよく知られているが、わずか十七文字の掲句はそれに匹敵する内容と気品とをそなえている。松本哉編『すみだ川の俳人・富田木歩大全集』(1989・私家版)所収。(清水哲男)


September 1192005

 砂に陽のしみ入る音ぞ曼珠沙華

                           佐藤鬼房

語は「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」で秋。植物名は「彼岸花」だ。墓場に多いので「死人花(しびとばな)」とも。掲句を読んで、高校時代のことを思い出した。バス停から自宅までの近道に、ちょっとした墓地があって、明るいうちはそこを通り抜けて帰宅した。墓地には曼珠沙華が点々と咲いており、当時は土葬だったので、地下の死人の血を吸い上げたような赤い色が不気味に思えたものだ。後に読むことになる北原白秋の「曼珠沙華」の出だしは、次のようである。「ごんしゃん ごんしゃん どこへゆく/赤いお墓の ひがんばな/きょうも手折(たお)りに 来たわいな//ごんしゃん ごんしゃん 何本(なんぼん)か/地には七本(しちほん) 血のように/ちょうど あの児(こ)の 年(とし)のかず」。よく晴れた日の午後の、人っこ一人いない墓地の静寂……。掲句の作者は、それを逆に「砂に陽のしみ入る音」と表現している。すなわち、無音の音がしていると言うのだ。いま思えば、私の通っていた墓地でも、たしかに無音の音がしていたような気がする。それも墓の下に眠る死者たちへ、天上の「陽」がじわりじわりとしみ入る「音」(のようだ)と聞いたところに、作者の無常観があらわれている。私たちが墓場に佇むときの一種名状し難い心持ちが、視覚的に、そして聴覚的にも的確に表現されている見事な作だ。『半迦坐』(1988)所収。(清水哲男)


September 1292005

 父の箸母の箸芋の煮ころがし

                           川崎展宏

語は「芋(いも)」で秋。俳句で「芋」といえば「里芋」のことだ。里芋の渡来は稲よりも古いとする説もあるそうで、大昔には主食としていた地方(九州や四国の山間部)もあることから、もっとも一般的に知られたイモだったからだろう。したがって、今はそうでもなくなってきたが、里芋の料理、とくに「煮ころがし」は、私の子供時代くらいまではごく日常的な家庭料理であった。いわゆる「おふくろの味」というヤツだ。作者の食卓にもいま、そんな煮ころがしが乗っている。久しぶりだったのだろう。懐かしいな、どれどれと箸をつけたときに、自然に思い出されたのが幼い日の「父の箸母の箸」であった。太くて長くて黒っぽい父の箸と細くて短くて朱っぽい母の箸と,そして芋の煮ころがしが卓袱台(ちゃぶだい)に乗っていた光景。これらの取り合わせは何の変哲もないがゆえに、逆に往時への郷愁をかきたてられるのだ。父も若く、母も若かった。あの頃は,こうした暮らしがなんとなくいつまでも続くように思っていたけれど、振り返ってみれば、わずかな期間でしかなかった。誰にも、容赦なく時は過ぎ行くのである……。と、それこそ芋の煮ころがしのように、ただ三つの名詞を転がしただけの句であるが、とても良い味を出している。『葛の葉』(1973)所収。(清水哲男)


September 1392005

 なつめの実青空のまま忘れらる

                           友岡子郷

語は「なつめ(棗)の実」で秋。他の植物よりも遅く、夏に芽が出てくるという意味での命名のようだ。「棗」は中国名で、万葉集にも「棗」と出てくる歌が二首あることから、渡来は相当に古いことがわかる。うちの一首は「梨(なし)、棗(なつめ)、黍(きみ)に粟(あは)つぎ、延(は)ふ葛(くず)の、後(のち)も逢はむと、葵(あふひ)花咲く」と、トリッキーではあるが、なかなかに熱烈な恋の歌だ。秋になると、黄褐色ないしは暗赤褐色の実をつける。薬用にもなるので、中国では珍重されるというが、日本ではそれほどでもないままで来たのではあるまいか。私の田舎にも普通にあったけれど、あまり美味いものじゃなかった。気まぐれにときどき口にしはしたが,パサパサして口当たりがよくなかったという記憶が強い。そんなふうだから、みんなから掲句のように「忘れられ」ていてもやむを得ないところがある。天高き好天の昼間、「青空」の下でつぶらに輝いている「なつめ」なのだが、その状態の「まま」に誰からも気に留められることがない。バックが青空だけに,余計にひとりぼっちと写る。そんな孤独な姿が、一読あざやかに脳裏に焼きつけられる句だ。「青空のまま」という措辞が、まことによく効いているのである。こういう句に出会うと,さすがに「プロ」だなあと感心させられてしまう。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1492005

 うつくしや鰯の肌の濃さ淡さ

                           小島政二郎

語は「鰯(いわし)」で秋。「鰯」は国字(日本で作った漢字、「凩」や「峠」などの類)で、漁獲するとすぐにいたんでくる「弱さ」からの作字だという。掲句を採り上げたのは、他でもない。このように鰯をしみじみと見つめた句は、とても珍しいからだ。鯛(たい)のような高級魚ならばともかく、捨てるほど穫れた鰯に見惚れて「うつくしや」などと言うのは、よほど特異な審美眼からの発想である。作者は『人妻鏡』などの大衆小説や『眼中の人』『円朝』などを書いた達者な小説家で、『くひしんぼう』という随筆集のある美食家でもあった。美食家はまず目で楽しむというから、その意味では本領を発揮した句と言えるかもしれない。鯛も鰯も、目で楽しむ分にはイーブンなのだぞ、と。ところが近年、どういう加減からか、鰯がだんだん穫れなくなってきた。二年前だったか、市場で鯛よりも高値がつくという珍事まで起きている。こうなるともはや立派な高級魚で、気がついてみたら、飲み屋などで気楽に注文できる魚ではない。中央水産研究所の今年度の漁獲予想によっても、やはりかんばしくなさそうだ。となると、これからは私のような「特異な審美眼」を持たない者でも、句の作者のように鰯をしみじみと見つめる時代になりそうだ。べつに政治が悪いわけじゃないけれど、なんだかなあ、へんてこりんな気分になってくる。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1592005

 怨み顔とはこのことか鯊の貌

                           能村登四郎

語は「鯊(はぜ)」で秋。昨日のつづきみたいになるが、しかし作者は、むろん審美的に魚を見ているのではない。鯊は頭と口が大きく、目が上のほうについているので、なんとなく人間の顔に似て見える。それも決して明るい表情ではなく、句のように、見れば見るほど暗い顔に見える。たぶん作者は誰かに「(あの表情は)怨み顔」なのだと教えられ、なるほど「このことか」と、あらためてまじまじと見つめているのだ。では、なぜ鯊が「怨み顔」をしているのか。その答えを書いた詩に、安西均の「東京湾の小さな話」(詩集『お辞儀するひと』所収)がある。「いちばん釣れるのはお彼岸ごろだから、/まだちょっと早いさうだが、/鯊釣りに誘はれた。すっかり/凪いで晴れた東京湾では、」ではじまるこの詩は、同行の青年のお祖母さんから聞いた話で締めくくられていく。「だってねえ、あたしゃ嫁に来た年の/大震災をようく覚えてますよ。/ええ、陸軍記念日の大空襲でも、/命からがら逃げまはって、/どっちも何万といふ人が大川で、/焼け死に、溺れ死にしましてね。/あなた、東京湾の鯊。あれは、/何食って育ったと思ひます」。このお祖母さんの話を受け、詩人は次の一行を加えて詩を閉じている。「生涯、鯊を食はないひともゐるのだ」。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1692005

 呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉

                           長谷川かな女

語は「芙蓉(ふよう)」で秋。近所に芙蓉を咲かせているお宅があり、毎秋見るたびに掲句を思い出す。といっても、共鳴しているからではなくて、かつてこの句の曖昧さに苛々させられたことが、またよみがえってくるからである。つとに有名な句だ。有名にしたのは、次のような杉田久女に関わるゴシップの力によるところが大きかったのだと思う。「(久女の)ライバルに対する意識は旺盛でつねに相手の俳句を注視し、思いつめてかな女の句が久女より多く誌上にのると怒り狂い、『虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯』という句をわざわざ書いて送ったりするが、かな女のほうは『呪ふ人は好きな人なり花芙蓉』と返句する。軽くいなされて久女はカッとなった」(戸板康二「高浜虚子の女弟子」)。「花芙蓉」は「紅芙蓉」の誤記だ。プライドの高かった久女のことだから、さもありなんと思わせる話ではあるが、実はまったくの誤伝である。誤伝の証明は簡単で、掲句は久女句よりも十五年も前の作だからだ。しかし戸板もひっかかったように、長年にわたってこの話は生きていたようで、「ため」にする言説は恐ろしい。ところで、私が句を曖昧だと言うのは、「呪ふ」の主体がよくわからないところだ。ゴシップのように「呪ふ」のは他者であるのか、それとも「好き」の主体である自分なのか、はなはだ漠然としている。どちらを取るかで、解釈は大きく異なってくる。考えるたびに、苛々させられてきた。失敗作ではあるまいか。諸種の歳時記にも例句として載っているけれど、不思議でならない。私としては、まずこの句をこそ呪いたくなってくる(笑)。『女流俳句集成』(1999)所収。(清水哲男)


September 1792005

 掛稲のむかうがはから戻らぬ子

                           満田春日

語は「掛稲(かけいね)」で秋、「稲架(はざ)」に分類。乾燥させるために稲架に掛けわたしてある、刈り取った稲群のこと。この季節の、昔なつかしい田園風景だ。たいていは一段に干すが、地方によっては段数の多いものもある。ちょこまかと走り回って遊んでいた「子」が、不意に掛稲の向こう側に行ってしまった。よくあることで、こちら側からはどこまで行ったのかが隠れて見えない。とくに心配することもないので、しばらく戻ってくるのを待っていたが、なかなか姿を現してくれない。「おや、どうしたのかな」と、少し不安になってきた図だろうか。これもまた親心というもので、他人からは「まさか永遠に帰ってこないわけではあるまいし」と、笑い飛ばされるのがオチだろう。ただ私は、作者の本意に適うかどうかは別にして、句には「永遠に戻らない子」が含意されているように思われた。すなわち、たいがいの親子の別れというものは、親の側に立てば,このようにやってくるのが普通だろうと……。さっきまでそこらへんで遊んでいたようなものである子が、たとえば進学や就職、結婚などのために親元を離れていく。親としては、はじめは稲架の向こう側に行ったくらいの軽い気持ちでいるのだけれど、以後はついに共に暮らすこともなく終わるケースは多い。私自身も子として、大学進学以来、一度も親と同居することはなかった。『雪月』(2005)所収。(清水哲男)


September 1892005

 今日の月すこしく欠けてありと思ふ

                           後藤夜半

語は「今日の月」で秋。陰暦八月十五日の月、中秋の名月のこと。「名月」に分類。昔は盗賊でも歌を詠んだという、今宵は名月。期待していたのに、満月と言うにはどうも物足りない。よくよく眺めてみるのだが、「すこしく欠けて」いるではないか。「すこしく」は「ちょっと」ではなく「かなり」の意だから、作者はそれこそ「すこしく」戸惑っている。おいおい、本当に今日が十五夜なのかと、誰かに確かめたくなる。天文学的なごちゃごちゃした話は置いて、名月に「真円」を期待するのは人情だから、作者の気持ちはよくわかる。この場合は、作者の「真円」のイメージが幾何学的にきつすぎたようだ。似たような思いを抱く人はいるもので、富安風生に「望月のふと歪みしと見しはいかに」がある。やはり「望月」は、たとえば盆のように真ん丸でないと、気分がよろしくないのだ。それが歪んで見えた。「ふと」とあるから、こちらの目の錯覚かなと、名月に対して風生は夜半よりも「すこしく」謙虚ではあるのだが……。工業の世界には真円度測定機なんてものもあるほどに、この世に全き円など具体的には存在しない。それを人間から名月は求められというわけで、月に心があるならば、今年は出るのをやめたいなと思うかもしれませんね。さて、今夜の月はどんなふうに見えるでしょうか。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1992005

 毎日が老人の日の飯こぼす

                           清水基吉

語は「老人の日(敬老の日)」で秋。1951年(昭和二十六年)から始まった「老人の日」が、「敬老の日」として1966年(昭和四十一年)から国民の祝日に制定された。当たり前のことながら、高齢者にとっては「毎日が老人の日」だ。子供や若者とは違って、高齢者は否応無く日々「年齢」を意識して生きる存在である。老人を対象としたホームヘルパーなどが使う用語に「生活後退」があるが、これは高齢者・障害者など生活障害がある人々の衣食住を中心とした「基本的な生活」の局面で現れる生活内容の貧困化、悪化及び自律性の後退である。軽度ながら「飯こぼす」もその一つで、こうした身体機能の低下は極めて具体的であるがゆえに、その都度「年齢」を意識せざるを得ないわけだ。したがって当人には毎日が老人の日なのであり、その毎日のなかの年に一日だけを取り出して仰々しい日にするなんぞは、全体どういう了見からなのか。こっちは日常的に老いを意識して生きざるを得ないのに、重ねて国が追い打ちをかけることもあるまいに……。と、作者は鼻じろむと同時に、その一方で「飯こぼす」自分の情けなさに憮然としてもいるのだ。ああ、トシは取りたくねえ。私事だが、最近よく小さい物を落とすようになった。ビンの蓋だとかメモ用の鉛筆だとか。若い頃にはむろん何とも思わなかったけれど、いまでは落とすたびにショックを受ける。生活後退の兆しだろうな、と。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 2092005

 ヒチコックの鴉ミレーの落穂かな

                           宮崎晴夫

鳥
語は「落穂(おちぼ)」で秋。稲刈りの後に落ち散った稲の穂。昔は落穂ひろいも農家の重要な仕事だったが、今ではどうなのだろう。句では、収穫後の田圃に人が出て、やはり落穂をひろっているのではあるまいか。周辺には、何羽かの鴉(からす)が飛んだり止まったりしているのが見えている。まことに長閑でおだやかな光景だ。だが、その牧歌的な眺めも、作者のようにふっと何かを連想することで、たちまち不吉な予兆を帯びた情景に変貌してしまう。こうした句では、何を連想するかが句の良し悪しの分かれ目となるが、私にはなかなかにユニークな連想だと思われた。「ヒ(ッ)チコックの鴉」とは、映画『鳥』(1963)に出てくる鴉だ。この映画は、普段は人間に何の害も及ぼさない野生の鴉や雀らが、ある日突然わけも無く人間に襲いかかってくるという動物パニック映画の傑作だ。とくに大きくて真っ黒い鴉たちが、だんだん周辺に数を増やしてくるシーンには非常に不気味なものがあった。作者はその様子をミレーの絵『落穂ひろい』にダブらせて連想し、熱心に落穂をひろう三人の女たちが顔を上げると、もはや周囲は鴉の集団に包囲され、真っ黒になっている図を想像している。一種の白日夢ではあるけれど、鴉の邪悪が農婦の敬虔を脅かす予感は十分にドラマチックだ。ただし、こういう句は一句詠んだら、それでお終いにしたい。バリエーションは可能でも、詠むほどに面白みが減っていくからだ。『路地十三夜』所収。(清水哲男)


September 2192005

 口下手の男と秋の風車

                           加藤哲也

句で「風車(かざぐるま)」は春の季題だから、掲句の季語は「秋」である。自画像だろうか。男が風車を手にしているのか、それとも傍らの人の手にあるのか、もっと言えば抽象的心象的な存在なのか。いずれにしても、秋風を受けて風車は軽快に回っているのだ。そして一方、男の口はといえば、軽快さとは裏腹にぼそりぼそりとしか言葉を発しない。したがって、ここで両者は一見対極にあるように思えるけれど、しかし天高き秋空の下に置いてみると、いずれもが季節の爽やかさとはどこかちぐはぐで、場違いな感じがする。お互いに季節から置き去りにされたような寂寥感が、読者の心をちらりとよぎる。そんな味わいを持った句だと思う。ところで、口下手とは一般的にどういう人の属性を指すのだろうか。たしかに世の中には、反対に良く口の立つ人もいる。私の考えでは、これまた対局にあるようでいて、そうでもないと思ってきた。自分の言いたいことを述べるというときに、前者はより慎重なのであり、後者はより状況判断が早いのである。だから話の中味については、どちらが理路整然としているかだとか、説得力があるかだとかは全く関係がない。状況に応じて、それらは口が立とうが下手だろうが入れ替わるものなのだ。よく漫才などでこの入れ替わりが演じられ笑いの対象になるのは、そこにこうしたいわば発語のメカニズムが極端に働くからなのだろう。だから中味的には、能弁で口下手な人もいれば、訥弁で巧みな人もいるという理屈になる。ちょっと議論が大雑把に過ぎたが、この問題はじっくり考えてみるに値すると思う。『舌頭』(2005)所収。(清水哲男)


September 2292005

 足踏みの音の疲れし脱穀機

                           松倉ゆずる

脱穀機
語は「脱穀(だっこく)」で秋、「稲扱き(いねこき)」に分類。現在ではコンバイン一台で稲の刈り入れから脱穀、さらには藁の処理まで行ってしまうが、戦後しばらくまでの水稲農家の秋は大変だった。鎌で刈り取って乾燥させた稲を、今度は脱穀機にかけて稲穂から籾(もみ)を扱きとる作業が待っている。そこで活躍するのが脱穀機だ。私が子供の頃にはまだ足踏み式(図版参照)の脱穀機が多く、ドラムにつけられた金属製の歯の間に稲穂をはさんで下の板を踏むと、ドラムが回転して籾が落ちるという仕掛けであった。相応の力とコツを必要とし、子供にはとても無理だったけれど、当時の農業では唯一の「機械」仕事だったので、物珍しく眺めたことを掲句から思い出した。実際、大正初期に発明されたというこの脱穀機が、日本農業機械化の最初の機械なのである。なんでも自転車のスポークに稲がからまって籾が落ちるのを見ての発明だそうだが、真偽のほどは不明だ。しかしいくら機械だとはいえ、所詮は人力式のかなしさである。だんだんに疲れが出てきて,その「音」にも、句のように疲れがあらわれてくるわけだ。一日に脱穀できる量も知れていたので、さぞや毎日が辛かったろう。だから、この足踏み式に石油発動機を連結した装置をはじめて見たときには、子供ながらに快哉を叫んだものだった。昔から農作業を実地に体験した人の句の少ないなかで、作者のこうした句作は貴重である。俳誌「俳壇」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


September 2392005

 機関車の底まで月明か 馬盥

                           赤尾兜子

語は「月」で秋。「馬盥(うまだらい)」は、馬を洗うため井戸端に設けられた石造りの盥。大きくて浅いものだそうだが、私は見たことはない。「明か」は「あきらか」と読む。難しい句だ。そう感じるのは、常識では「機関車の底まで」と「月明か」がつながらないからである。機関車の底まで月の光が射し込んでいるのかな。まさか、そんな馬鹿な……。と、初読のとき以来私は解釈を放棄したままでいたのである。ところが、実は作者は「そんな馬鹿な」イメージで作句していたことが、つい最近になってわかった。近着の俳誌「豈」(41号・2005年9月)に出ていた堀本吟の文章に、兜子の自解が引用されていたからだ。こう書いてある。「私は俳句の場を途方もなく広漠たるところに設定することがある。光を通さぬはずの機関車の底まで月光は届くのではないかと思われるのである。微塵の隙間からでも光は入るのだ」。つまり、あまりに鮮やかな月光なので、それが機関車をも貫いているように見えるというわけである。煌々たる月明を浴びた機関車が、その巨体の底までをぼおっと光らせて停車しているのだ。その美しい機関車の傍には、かつて機関車に役割を取って代わられた馬たちのための盥がひっそりと、これまた月明に冷たく輝いている。なんと幻想的であり、哀感十分な光景だろう。しかしながら、このような解釈は自解を知ってはじめて成立したものである。素読でここまでイメージを引っ張り出す力は、私にはない。そのことを思うと、すっきりしたようでそうでもないようで……。『歳華集』(1975)所収。(清水哲男)


September 2492005

 秋空がまだ濡れてゐる水彩画

                           鈴木鷹夫

語は「秋空」、「秋の空」に分類。近所の井の頭公園を歩いていると、冬の特別に寒い日は別にして、たいてい何人かの人がイーゼルを立てて絵を描いている。そしてたいてい、通りかかった誰かが描かれていく様子を立ち止まって見つめている。私もまたときどき、その誰かのうちの一人になる。掲句の作者も立ち止まって見ているうちに、この句を得た。ちょうど空を塗り終えたところなのだろう。まだ、空の部分が濡れている。「水彩画」なので濡れていて当たり前なのだが、その当たり前を掲句は、現実の「秋空」に投影するかのように捉まえているところが非凡だ。写生画は現実の様子を写すわけだが、作者はその写された画を見て,もう一度それを実際の空に写し返している。そうすると、まるで現実の秋の空が「まだ濡れてゐる」ように思われるのだ。面白いもので、私ももちろんだが、絵を描く人の後ろで見ている人の視線は、その絵と絵の対象との間を行ったり来たりするものだ。つまり、その絵がどれほど実際の形や色彩に近いか、現実そっくりに写しているかを確かめようとするのである。描き手にとっては余計なお世話なのだけれど、掲句はそうした見物人の素朴な好奇心による心理をよく踏まえて作句されている。この句は「俳句研究」(2005年10月号・「自作の周辺」)で知ったのだが、添えられた作者の文章によると、発表後に類句が頻出しているらしい。真似か、偶然か。それは知らねども、多くの人が深く同感できる一句であるのは間違いないところだ。(清水哲男)


September 2592005

 鳴く雁を仰ぐ六才ともなれば

                           辻田克巳

語は「雁(かり)」で秋。最近、アメリカのサイトで興味深い記事を読んだ。新しいデジカメを買ったので、これまで使っていた古い機種を間もなく五才になる息子に与えてみた。間もなく五才「ともなれば」、一通りの操作はできるようだ。いろいろと彼が撮った写真を見てみると、大人とはかなり被写体への関心が違っているのがわかった。人物写真の多くには顔が映っておらず、またカメラがまっすぐになっているかなどには頓着していない。前者について筆者は、一メートルそこそこの身長では、彼の視野に日頃さして人の顔が入ってこないためだろうと分析し、後者については、その無頓着がユニークなセンスとして表現されていると驚いている。すなわち、大人と子供とでは日常的な視野が違うし、関心の持ちようも大違いというわけだ。それがだんだん成長するに連れ、いわば分別がついてきて、顔のない人物写真などは撮らなくなってしまう。この話の延長上で掲句を捉えると、やはり「六才ともなれば」、五才とはだいぶ違った様子になる。むろん「鳴く雁」に風情を感じているのではないが、仕草だけを見れば、かなり分別くさく写る。子煩悩ならば、その成長ぶりに目を細めることだろう。そしてこの句の良さは、こうした六才の仕草を通じて、読者それぞれに六才だった頃のことを思い出させるところだ。自分のときは、どうだったかな。ときどき書いてきたように、私の六才の空には、たいていB-29の機影と探照灯の光帯があった。「俳句」(2005年10月号)所載。(清水哲男)


September 2692005

 ゑのころの穂に茜さす志

                           佐々木六戈

語は「ゑのころ」で秋、「狗尾草(えのころぐさ)」に分類。花穂を子犬の尾に見立てて、この名がある。「猫じゃらし」とも言い、こちらのほうが一般的かもしれない。環境に順応する力が強いのだろうか、全国的にどこにでも生えている草だ。そんないわば雑草が、朝日を浴びて茜色に照り映えている状景だろう。そして「茜さす」はもともとが「朝日」や「光」「紫」などにかかる枕詞だから、掲句では「ゑのころの穂」の状景を描写するのと同時に、本来の使い方で下五の「志」にもかけてあるのだと思う。すなわち「茜さす志」とは、「赤心」に通じる嘘いつわりやはったりのない真摯な志の意味と読める。秋の朝のさわやかな大気のなかで、みずからの志のことを思っているわけだが、その志は「ゑのころ」と同じように決して大きくも派手でもない。だがしかし、いくらつつましやかな志だとはいえ志は志なのであるから、容易に成就するはずもなく、作者はいつの日かおのれの「茜さす志」が文字通りに照り映えることがあるだろうかと、日に染まって揺れている「ゑのころ」にしばし眺め入っているのである。この句に触れて、私は若き日の志のことを思い出した。と同時に、現在の自分には志と呼べるようなものが何もないことに愕然ともしたのだった。「句歌詩帖・草藏」(第23号・2005年9月刊)所載。(清水哲男)


September 2792005

 黒葡萄包む「山梨日日」に

                           中村与謝男

語は「葡萄(ぶどう)」で秋。作者は関西在住だから、山梨に旅したときの句だろう。山梨は、ご存知のように有数の葡萄の特産地だ。葡萄狩りを楽しんだのだろうか。摘んだ黒葡萄をお土産に持ち帰るのに、「山梨日日(新聞)」で包んだというのである。ただそれだけの句であるが、他の新聞ではなく、わざわざ地元紙を選んで包んだところがミソなのだ。つまり作者は、葡萄だけではなくて,それを包んだ新聞までが土産になるという思いつきを喜んでいる。どうせ包むならそうありたいと、ちょっと私にもそういうところがある。どの地方でも読める全国紙なら、土産をもらった人はすぐに捨ててしまうだろうが、普段は読めない地方紙だと、目を通したくなるのが人情だ。少なくとも、見出しや写真だけにでも注目してくれるだろうと、作者のいわばサービス精神が働いている。特産物を、地元の社会的な雰囲気といっしょに届けるという発想は嬉しい。ちなみに、昨日付「山梨日日」朝刊のヘッドラインから拾っておくと、「秋季関東高校野球、4強出そろう」「10月2日の須玉甲斐源氏祭り、戦国時代の櫓が登場」「甲府一高伝統の『強行遠足』、野辺山目指し健脚競う」等々だ。「強行遠足」の小見出しには「男子の7割、女子9割が完走果たす」とある。こんな記事の載っている新聞で葡萄が包んであったとしたら、私は喜んで読んでしまうだろう。『樂浪』(2005)所収。(清水哲男)


September 2892005

 殊に濃き天誅村の葉鶏頭

                           塩路隆子

語は「葉鶏頭(はげいとう)」で秋。雁が飛来する頃に葉が色づくので、「雁来紅(がんらいこう)」とも。「かまつか」の別名もある。句の「天誅(てんちゅう)村」とは、おそらく幕末の尊王攘夷激派であった天誅組終焉の地の奈良県は東吉野村のことだろう。明治維新の五年前、大和に兵を挙げた若き浪士の集団・天誅組は、思いもよらぬ京都での政変のあおりをくらう形で朝敵視され、志を果たせぬままに討ち果たされた。純粋が老獪に破れた格好だ。非情なことを言えば、逆の立場の新撰組がそうであったように、彼らもまた新しい日本をつくるための捨て石であった。現在、東吉野の里には終焉の地の碑が建てられており、その悲劇性により全国的にも人気が高いという。そんな若者たちの烈々たる赤心を、作者は葉鶏頭の朱に認めたのだろう。そして「殊(こと)に濃き」色には、流された彼らの血の色も重ねられている。歴史的に有名な事件や出来事のあった土地を旅すると、どうしてもそれらのフィルターを通して、風景や景物を眺めることになる。そこで日常生活を営んでいる人たちはさして意識していないことまでをも、旅行者の目は見つめてしまう。掲句もその典型の一つだ。が、しかしこのようにして歴史は後世へと語り継がれていくのでもあるから、貴重な一句と言えよう。『美しき黴』(2004)所収。(清水哲男)


September 2992005

 姫君の鎧の胸に銀やんま

                           佐藤博重

鎧
語は「やんま」、代表格が「銀やんま」で海上を飛ぶ性質を持つ。秋の「蜻蛉」に分類。現存する女性用の「鎧(よろい)」といえば、瀬戸内海の中央に浮かぶ大三島の大山祇神社に保存されているのが唯一のものだ。見られるように、胸の辺りがふっくらとしていてウエストは細い。掲句は、この鎧を実見した際のものである。鎧を着用していたのは、瀬戸内のジャンヌダルクと称される鶴姫だ。時は16世紀室町期。周防の大内義隆の水軍が、大三島神社の宗教的権威を手に入れようと攻め込んできた。迎え撃った三島水軍の大将大祝安房は、激戦の果てに討ち死にしてしまう。そこで安房の妹である鶴姫が、兄に代わって三島水軍を率いることに。当時十六歳の彼女は勇猛果敢に戦い、二度にわたって敵を打ち破った。だが、三度目の戦いで恋人である城代の越智安成が戦死。その悲しい知らせを受けた鶴姫は、ひとり夜の海へと船を漕ぎだしていき、二度と島に帰ることはなかったという。作者はこの伝説と鎧から実際に鶴姫の勇姿を連想し、胸元についと銀やんまをかすめさせた。このときに銀やんまは光の矢であるから、鶴姫の女性性はいやが上にも強調され、にもかかわらず男に伍して一歩も退かない凛とした姿も浮かび上がってくるのだ。ただ句とは無関係だが、たいていの伝説の主人公がそうであるように、どうやら鶴姫は創作上の人物らしい。だとしたら、鎧の本当の持ち主は誰だったのだろう。『初蝶』(2005)所収。(清水哲男)


September 3092005

 物の音散りあつまりて十月へ

                           黒川路子

語は「十月」で秋。早いもので、今日で今年も四分の三が過ぎることになる。明日からは、秋も一段と深まりゆく十月だ。そんな気持ちのなかで掲句を読むと、特に何が書いてあるわけでもないけれど、しみじみと胸に沁み入ってくるものがある。書かれているのは、単に「物の音」の状態だけだ。何の音かは、特定されていない。この季節のいろいろな音、聞こえてくるもろもろの雑多な音である。九月は秋といっても、まだまだ暑さの厳しい日があって夏を引きずっており、注意力や集中力も散漫になりがちだから、聞こえてくる音も雑多なままに、いわば「散」っている感じだ。ところが、だんだん朝夕から涼しくなりはじめると、心の統合力も高まってくる。雑多に散るがままに聞き捨ててきた「物の音」が、ひとつひとつはっきりと認識できるようになり、とりわけて風や雨などの自然の音は明らかに一つの方向へと「あつま」りはじめるように聞こえてくる。一つの方向とは、むろん涼しくて爽やかな季節へのそれだ。九月も終りの頃は、そろそろそれらの音が「散りあつまり」しながら聞こえる季節を過ぎて、透明に「あつまる」感じが濃くなってくる。そうなると、いよいよ十月だ。抽象的な句ながら、本格的な秋の訪れへの期待感が、逆に具体的身体的に感じられるところは心憎いほどの巧さだ。さあ、「十月へ」。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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