カトリーナ以上の暴風圏を持つ台風が接近中ですね。沖縄九州方面の方、お気をつけて。




2005ソスN9ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0492005

 鰯雲記憶は母にはじまれり

                           伊藤通明

語は「鰯雲(いわしぐも)」で秋。郷愁に誘われる雲だ。郷愁の行き着く先は幼少期だが、突き詰めていけば最初の記憶にまでさかのぼる。夢か現か、ぼんやりとしてはいるけれど、作者の記憶は「母」にはじまっていると言うのだ。どんな顔や姿で記憶された母の姿なのだろう。ミルクの匂いでもしてきそうな句だ。こういう句は、読者を誘惑する。「あなたの場合はどうですか」と、誘ってくる。私の最初の記憶は、何だったろうか。三島由紀夫は産湯のときから覚えていると書いたが、そんなにさかのぼれはしない。懸命に思い出してみるが、あれは何歳のときだったのか。たぶん、病気で寝かされていたのだろう。目覚めると夕暮れ近くで,表を通る豆腐屋のラッパの音が聞こえていた。部屋には誰もいなかったことや、その部屋が家の中のどの部屋だったかは思い出せる。そのときに「こうして寝ているのも気持ちがいいなあ」と思ったこともはっきりと……。四歳か五歳くらいだったのではあるまいか。ただし、記憶という奴はくせ者だから、これが最初の記憶だという保証はどこにもない。最初の記憶だとしても、豆腐屋のラッパがそのときのものだったのか、あるいは同じような状況が何度かあって、その都度の印象が複合されたものかもしれないのだからだ。つまり、記憶は太るものでもあれば、逆に痩せるものでもある。では、あなたの最初の記憶の場合は如何でしょうか。『西国』(1989)所収。(清水哲男)


September 0392005

 薔薇の酒薔薇の風呂もて持て成さる

                           高橋とも子

語は「薔薇」で夏。そのまんまの句なのだろうが、素材が尋常ではない。「薔薇の酒」「薔薇の風呂」とは、いったい何であろうか。知らないのは私だけかもしれないけれど、少年時代に、西欧の女優は牛乳風呂に入るのだそうなと聞いたときのような感じを受けた。その後しばらくして、マルティーヌ・キャロルの主演映画『浮気なカロリーヌ』を見たときに、ようやく納得した覚えがある。この映画、ストーリーとは関係なく、やたらに入浴シーンがあった。バスタブに湛えられた真っ白な液体の説明はなかったけれど、ひとり「ああ、これだな」と私は合点したものである。シャボンの泡だけでは、あの白さは出ないはずだ。そんな連想もあって,まず「薔薇の風呂」のおおよその見当はつき、念のためにとネットで検索してみたら、出てくるわ出てくるわ、知らなかったのはやはり私だけだったようだ。要するに、薔薇の花びらを浮かべた風呂であり、香りが良いらしい。ただ、野暮天としては,入った後の片付けが大変だろうなと、まずは思ってしまった次第だ。次なる「薔薇の酒」だが、どうやらこちらは知らなくても恥ではないようだ。見かけはワインだが、中味は日本酒という珍品だからだ。島根県の酒造会社が昨年,薔薇の花びらを日本酒に漬け込んで薔薇色を出すことに成功し,実験的に売り出したところ大いに売れたということだった。いずれにしても、薔薇づくしの「持て成し」とは豪勢な。そのまんまながら、むしろそのまんまに、句にとどめておきたかった作者の気持ちがわかるような気がする。俳誌「百鳥」(2005年9月号)所載。(清水哲男)


September 0292005

 露深し今一重つゝむ握り飯

                           盧 文

語は「露」で秋。江戸元禄期の無名の人の俳句を集めた柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫)に載っている句。「旅行」という前書がある。朝の早立ちだ。腰につけていく昼食用の「握り飯」をつつんでいるのだが、表をうかがうと、今朝はことのほか「露」が深く降りている。この露のなかを分けて歩いたら、相当に濡れそうだ。いつものつつみでは沁み通りそうなので,用心のために,いま「一重」余計につつんだと言うのである。私の子供の頃でもそうだったように,竹の皮を使ったのだろう。「露の深さ,草の深さに行きなずむというようなことは、句中にしばしば見る趣であるが、ただ裾をかかげたり、衣袂(たもと)を濡したりする普通の叙写と違って,握飯を今一重裹(つつ)むというのは、如何にも実感に富んでいる。昔の旅行の一断面は、この握飯によって十分に想像することが出来る」(宵曲)。たしかに、往時の旅行は大変だった。岡本綺堂の本を読んでいたら、昔の人はみんな旅が嫌いだったとはっきり書いてあった。そりゃそうだろう。どこに出かけるのも、基本的には徒歩なのだし、知らない土地の情報も薄いから、心細いこと限り無し。落語に出てくるような寺社詣でにことよせた物見遊山ならばまだしも、長旅には必ず水盃がつきものだったというのもうなずける。旅行が趣味という人が増えてきたのは,つい最近のことなのだ。隔世の感ありとは、このことだろう。(清水哲男)




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