蛹ウSq句

September 0692005

 選挙近し新米古米まぜて炊く

                           大元祐子

語は「新米」で秋。出回るには今年はまだ少し早いが、むろん掲句のような年もあるわけだ。「選挙」は国民の米櫃に関わる大事だから、「米」との取り合わせにはごく自然な感じを受ける。家計をあずかる主婦として、せっかくの「新米」なのでそれだけで炊きたいところを、残っている「古米」と「まぜて炊く」。少々水加減が難しそうだが(笑)、やりくりとはこういうことだ。一度や二度の「ぜいたく」くらいと思っていると,だんだんと家計のあちこちに赤字の穴が開いてしまう。それでなくとも増税のつづく世の中、ただ単に生きて呼吸しているだけで、年々の出費はかさばる一方である。今度の選挙では、果たしてどんな結果が出るのだろうか。主婦は主婦の立場から、理想的とまでは言わないまでも,それに近い政策を実行してくれる勢力の伸長を願いつつの炊事である。主婦は主婦の立場からといえば、私は高齢者の立場から、今度の選挙を見ている。見ざるを得ない。年金問題をはじめ、医療費やらその他の老人福祉問題を含めて、おおかたの党派は偽善的で冷淡だ。若い候補者などは、いつか自分も高齢者になることなど、まったく念頭にないかのようだ。高齢者であろうと、搾り取れる金は搾り取る。こんな考えが政治家に横行するようでは、早晩この国も衰退してしまうだろう。生きてて良かった。誰もが、素朴にそう思える社会になってほしい。『人と生れて』(2005)所収。(清水哲男)


July 1772007

 涼しさよ人と生まれて飯を食ひ

                           大元祐子

外なことに「涼」とは夏の季題である。暑い夏だからこそ覚える涼気をさし、手元の改造社「俳諧歳時記」から抜くと、「夏は暑きを常とすれど、朝夕の涼しさ、風に依る涼しさ等、五感による涼味を示す称」とあり、前項の「釜中にあるが如き」と解説される「暑き日」や「極暑」の隣にやせ我慢のように並んでいる。食事をすると体温はわずかに上昇する。これは「食事誘発性体熱産生反応」という生理現象だという。掲句では「飯を食う」という手荒い言葉を用いることによって、食べることが生きるために必要な原始的な行動であることを印象付けている。また、その汗にまみれた行為のなかで、今ここに生きている意味そのものを照射する。体温が上昇する生理現象とはまったく逆であるはずの涼しさを感じる心の側面には、喜びがあり、後悔があり、人間として生きていくことのさまざまな逡巡が含まれているように思える。ものを食うという日常のあたりまえの行為が、「涼し」という季題が持つやせ我慢的背景によって、知的動物の悲しみを伴った。そういえば、汗と涙はほとんど同じ成分でできているのだった。大元祐子『人と生まれて』(2005)所収。(土肥あき子)


June 0262014

 国家とは国益とはと草を引く

                           大元祐子

二次安倍内閣になってから、やたらと「国家」「国益」の文字を目にするようになった。政治家が「国家」「国益」を考えるのは当然だが、安倍内閣の場合は、ことさらに危機感を煽りつつ喧伝するので始末が悪い。草を引きながらも「国家」「国益」とは何かと、つい自問してしまうほどである。とはいっても、作者はここでその回答を求めているのではないだろう。引いても引いても生えてくる雑草のように、この自問が繰り返し現れてきてしまうというわけだ。つまり、草取りのような労働にあって、同じように果てしのない回答なしの自問を繰り返すとき、草取りという労働のルーティン・ワーク性がより鮮明になってくるのである。子供の頃の畑の草取りは辛かった。そんな私がこの句を読むと、暑い日差しに焼かれながら、いつも回答のない自問を繰り返していたことを思い出す。『新現代俳句最前線』(2014)所載。(清水哲男)




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