ちらちらとですが、久しぶりに朝日が見られる東京です。蝉たちも喜んでいるでしょう。




2005ソスN9ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0792005

 長き夜のシュークリームの貌つぶす

                           河内静魚

語は「長き夜」で秋、「夜長」に分類。秋の夜長、ひとり作者は無聊(ぶりょう)をかこっているのだろう。「シュークリーム」があったのを思い出し、食べることにした。皿の上に置いて食べかけたとき、ふとなんだか人の「貌(かお)」を「つぶし」ているような気がしたと言うのである。なるほど、そのように見えないこともない。普段ならそんなことは思いもせず食べてしまうのに、やはり長き夜の無聊の心がそう見させたのだろう。「顔をつぶす」と俗に言うが、人間ひとりで鬱々としていると、ざらざらと自棄的になっているせいで、少々残忍なイメージも浮かんでくるということか。そのこととは別に、掲句を読んで咄嗟に思ったのは、作者はどうやってシュークリームを食べているのかということだった。「つぶす」とあるから、かぶりついたのではない。スプーンかフォークか、何かを使ってつぶしている。私はそんな上品な食べ方をしたことはないが、とにかく食べにくい厄介な菓子だ。下手をすると、口の周りにべたべたとクリームがついてしまうし、たとえフォークを使ったとしても、今度は皿の上がクリームだらけになってしまいそうだ。本来は、どうやって食べるものなのだろう。なお「シュークリーム」は、フランス語「シュー・ア・ラ・クレーム」の「ア」と「ラ」が省略され、「クレーム」を英語読みして「シュークリーム」となった。「シュー」は皮を意味し、「クリーム入りのキャベツ」という意味だ。皮の形が(「貌」ではなく)キャベツに似ていることから名付けられたという。英語では「クリームパフ」。外国で「シュークリーム」と注文すると、靴墨が出てくるかもしれないのでご用心(笑)。『花鳥』(2002)(清水哲男)


September 0692005

 選挙近し新米古米まぜて炊く

                           大元祐子

語は「新米」で秋。出回るには今年はまだ少し早いが、むろん掲句のような年もあるわけだ。「選挙」は国民の米櫃に関わる大事だから、「米」との取り合わせにはごく自然な感じを受ける。家計をあずかる主婦として、せっかくの「新米」なのでそれだけで炊きたいところを、残っている「古米」と「まぜて炊く」。少々水加減が難しそうだが(笑)、やりくりとはこういうことだ。一度や二度の「ぜいたく」くらいと思っていると,だんだんと家計のあちこちに赤字の穴が開いてしまう。それでなくとも増税のつづく世の中、ただ単に生きて呼吸しているだけで、年々の出費はかさばる一方である。今度の選挙では、果たしてどんな結果が出るのだろうか。主婦は主婦の立場から、理想的とまでは言わないまでも,それに近い政策を実行してくれる勢力の伸長を願いつつの炊事である。主婦は主婦の立場からといえば、私は高齢者の立場から、今度の選挙を見ている。見ざるを得ない。年金問題をはじめ、医療費やらその他の老人福祉問題を含めて、おおかたの党派は偽善的で冷淡だ。若い候補者などは、いつか自分も高齢者になることなど、まったく念頭にないかのようだ。高齢者であろうと、搾り取れる金は搾り取る。こんな考えが政治家に横行するようでは、早晩この国も衰退してしまうだろう。生きてて良かった。誰もが、素朴にそう思える社会になってほしい。『人と生れて』(2005)所収。(清水哲男)


September 0592005

 桔梗の二夫にまみえて濃紫

                           阿部宗一郎

語は「桔梗(ききょう、きちこう)」で秋。秋の七草の一つではあるが,実際には六月頃から咲きはじめる。昔は朝顔のことだったという説もあるので、秋の花の定説が生まれたのだろうか。ところで、掲句がすらりとわかった読者は、かなり植物に詳しい人である。わからなかった私は、百科事典などをひっくりかえして、ようやく納得。「二夫(にふ)」は二人の夫の意味で、儒教に「貞女二夫にまみえず」の教えがある。たとえ未亡人の身になっても再婚しないのが女の鑑(かがみ)というわけだが、「桔梗」の場合はそうはいかないのである。そんなことをしていたら、子孫が絶えてしまうからだ。少し説明しておくと,桔梗の雄しべは開花後にすぐ成長して花粉を放出する。雌しべは、その後でゆっくりと成長していく。つまり同一の花の雄しべと雌しべの交配を避ける(自家授粉しないための)仕組みであり、雌しべは常に他の花の雄しべの花粉で受精することになる。「雄ずい先熟」と言うのだそうだが、すなわち桔梗の雌しべは「二夫にまみえて」はじめて子孫を残すことができるというわけだ。桔梗というと、私などには清楚で凛とした花に見える。が、こうした生態を知っている作者には、その「濃紫」がどこかわけありで艶っぽく感じられると言うのだろう。今度実物に出会ったら、じっくりと眺めてみたい。『現代俳句歳時記』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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