Xリ六句

September 2692005

 ゑのころの穂に茜さす志

                           佐々木六戈

語は「ゑのころ」で秋、「狗尾草(えのころぐさ)」に分類。花穂を子犬の尾に見立てて、この名がある。「猫じゃらし」とも言い、こちらのほうが一般的かもしれない。環境に順応する力が強いのだろうか、全国的にどこにでも生えている草だ。そんないわば雑草が、朝日を浴びて茜色に照り映えている状景だろう。そして「茜さす」はもともとが「朝日」や「光」「紫」などにかかる枕詞だから、掲句では「ゑのころの穂」の状景を描写するのと同時に、本来の使い方で下五の「志」にもかけてあるのだと思う。すなわち「茜さす志」とは、「赤心」に通じる嘘いつわりやはったりのない真摯な志の意味と読める。秋の朝のさわやかな大気のなかで、みずからの志のことを思っているわけだが、その志は「ゑのころ」と同じように決して大きくも派手でもない。だがしかし、いくらつつましやかな志だとはいえ志は志なのであるから、容易に成就するはずもなく、作者はいつの日かおのれの「茜さす志」が文字通りに照り映えることがあるだろうかと、日に染まって揺れている「ゑのころ」にしばし眺め入っているのである。この句に触れて、私は若き日の志のことを思い出した。と同時に、現在の自分には志と呼べるようなものが何もないことに愕然ともしたのだった。「句歌詩帖・草藏」(第23号・2005年9月刊)所載。(清水哲男)


September 0492008

 一の馬二の馬三の秋の風

                           佐々木六戈

近復刻された岩波写真文庫『馬』の冒頭に「馬といえば競馬と思うほどに、都会人の常識は偏ってしまった。しかし、文化程度の低い日本では馬こそは未だに重要な生活の足である」と記述がある。収められた写真を見ればこの本が編集された1951年当時、農耕馬や荷車を引く輓馬(ばんば)が生活の中にいたことがわかる。といってもこれより数年遅く生まれた私には身近に働く馬の記憶はなく、馬と言えばこの記述にあるとおり競走馬なのだ。次々とやってくる馬はたとえば調教師にひかれてパドックを回る馬、レース前にスタート地点へ放たれる返し馬、ゴールに駆け込む馬の姿が思われる。鋼のように引き締まった馬が、一の馬、二の馬とやって来て、次はと待つところへ秋風が吹きわたってゆく。三の馬が吹き抜ける風に化身したようだし、この空白がやって来ない馬の姿をかえって強く印象づける。夏の暑さに弱い馬も涼しくなるにつれ生来の力強さが蘇る。秋の重賞レースも間近、颯爽とかける馬の姿が見たくなった。『佐々木六戈集』(2003)所収。(三宅やよい)




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