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September 2792005

 黒葡萄包む「山梨日日」に

                           中村与謝男

語は「葡萄(ぶどう)」で秋。作者は関西在住だから、山梨に旅したときの句だろう。山梨は、ご存知のように有数の葡萄の特産地だ。葡萄狩りを楽しんだのだろうか。摘んだ黒葡萄をお土産に持ち帰るのに、「山梨日日(新聞)」で包んだというのである。ただそれだけの句であるが、他の新聞ではなく、わざわざ地元紙を選んで包んだところがミソなのだ。つまり作者は、葡萄だけではなくて,それを包んだ新聞までが土産になるという思いつきを喜んでいる。どうせ包むならそうありたいと、ちょっと私にもそういうところがある。どの地方でも読める全国紙なら、土産をもらった人はすぐに捨ててしまうだろうが、普段は読めない地方紙だと、目を通したくなるのが人情だ。少なくとも、見出しや写真だけにでも注目してくれるだろうと、作者のいわばサービス精神が働いている。特産物を、地元の社会的な雰囲気といっしょに届けるという発想は嬉しい。ちなみに、昨日付「山梨日日」朝刊のヘッドラインから拾っておくと、「秋季関東高校野球、4強出そろう」「10月2日の須玉甲斐源氏祭り、戦国時代の櫓が登場」「甲府一高伝統の『強行遠足』、野辺山目指し健脚競う」等々だ。「強行遠足」の小見出しには「男子の7割、女子9割が完走果たす」とある。こんな記事の載っている新聞で葡萄が包んであったとしたら、私は喜んで読んでしまうだろう。『樂浪』(2005)所収。(清水哲男)


November 21112005

 練炭の灰練炭の形で立つ

                           中村与謝男

語は「練炭(れんたん)」で冬。懐かしや。物心ついた頃の我が家の暖房には練炭ストーブが使われていたので、練炭との出会いはずいぶんと古い。句の情景も、見慣れたそれである。でも、掲句の中味が古いのかと言えば、まったく逆だろう。私よりも二十歳近く年下の作者にしてみれば、この情景はむしろ新鮮なのだ。昔だと、どこででも見られたから当たり前すぎて、こういう句は成立しにくかった。いまではめったに目にすることがないので、昔の当たり前をまじまじと見るようなことも起きてくるというわけだ。言われてみれば、なるほど「灰」になっても原型をとどめている練炭のありようは面白い。むろん、木や紙や何かを燃やしても、そのままそおっとしておけば原型はとどめるが、練炭の場合は灰が固くて強いから、ちょっとやそっとの振動などでは毀れないのが特長だ。燃え尽きても崩れない。そこには意思無き練炭にもかかわらず、さながら梃子(てこ)でも動かぬ強固な意思ある物のように見えてくるではないか。句は、そのあたりのことを言っているのだと思った。練炭は一定の温度を長時間保ったまま燃えるので便利なのだが、欠点は一酸化炭素を出しすぎる点だ。したがって、現今のように密閉された住宅では、中毒の危険があるので使えない。最近たまに新聞で練炭の文字を見かけると、車の中での心中事件に使われていたりして、この国の燃料としてはすっかり過去のものとなってしまった。『楽浪』(2005)所収。(清水哲男)


February 1022006

 春炬燵男腕組みして眠る

                           中村与謝男

語は「春炬燵(はるごたつ)」。春になっても、まだ使っている炬燵のこと。今年はとくに寒い日がつづくので、しまっていないお宅は多いことだろう。でも、寒いとはいっても、真冬とは違って、室内の温度はだいぶ高くなってくる。そこでつい、とろとろと眠気に誘われる。この「とろとろ」気分が、実に快適なんですよね。掲句の「男」も気持ちよく眠ってしまったわけだが、しかし「腕組み」は相変わらずほどかずにいると言うのだ。さきほどまで、何かを思案していたのだろうか。そんな思案への緊張感を保ったままで眠っている男の姿に、作者はそれこそ「男」を見たのである。とろとろうとうとしているというのに、何もそんなに肩肘張った姿勢のままでいることもあるまいに……。とも思うのだが、他方では眠ってもなお緊張の姿勢を解かないところに、男というもののありようを強く感じさせられて、共感を禁じ得ないでいるわけだ。そんなに大袈裟なシーンではないけれど、この句には、おそらく男同士でないとわからない一種の哀感が漂っているのだと思う。それは、かつて流行した歌「人生劇場」の文句じゃないが、「♪男心は男じゃなけりゃわかるものかと……」の世界に通じていく哀感だ。もはや「男気」などという言葉すらもが聞かれなくなって久しいが、こういうかたちでそれが残っていることに着目した作者の眼力は冴えている。まだまだ「男はつらいよ」の世の中は継続中なのだ。『楽浪』(2005)所収。(清水哲男)


December 22122012

 哀歓はとつぜんに来る冬すみれ

                           中村与謝男

しみや喜びは何の前ぶれもなく訪れることが間々あり、またその方が突然であった分、驚きと共に深いものとなる。思いがけない喜びは周囲の人々と共有しながら、あらためてじっくりと味わうこともできるが、突然訪れた悲しみは、己の中にたたみ込んで結局は時が経つのを待つより他はない。哀歓、という言葉は悲しみと喜びを意味するが、掲出句の上五が、哀しみは、であっても、歓びは、であっても、冬すみれらしさに対する先入観が見えてしまいそうである。哀歓は、とすることで、作者の感情と冬すみれの間にほどよい距離感が生まれ、そこにふとただ咲いている冬すみれの存在感に、人生ってそんなものだよな、とつぶやいている作者が見えてくるようだ。『豊受』(2012)所収。(今井肖子)


March 0332014

 机除け書物除け即雛の間

                           中村与謝男

日の住宅事情では、昔の映画などに出てくるような特別な雛の間を作ることは難しい。それに雛本体はさして大きくなくても、かざるとなればかなりのスペースが必要だ。したがって、句のように机をずらしたり積んである本を片づけたりということになる。句集から推測すると、この雛飾りは一歳を迎えた娘さんのためのものらしい。親心が読者にも沁みてくる。我が家にも娘がいるのだけれど、どういうわけか雛に限らず人形全般が嫌いだったため、こうした苦労はせずにすんだ。しかし何も飾らないのも親として寂しいので、毎年小学館の学年雑誌の付録についてきた紙のお雛さまを、テレビの上にちょこんと乗せておいたのだった。人生いろいろ、雛飾りもいろいろである。『豊受』(2012)所収。(清水哲男)




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