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October 22102005

 流れ星ヨットパーカーあふられて

                           対中いずみ

語は「流れ星(流星)」で秋。「ヨットパーカー」を着ているからといって、ヨットに乗っているとは限らない。四季を問わぬスポーツウェアだ。ましてや句は夜の状景だから、作者は陸上にいる。セーリングの後かもしれないし、ランニングなど他の運動の後かもしれない。とにかく心地よい汗を流した後なので、心は充足している。パーカーが「あふられ」るほどに風は強いのだけれど、むしろその風を心地よく感じているのだろう。フードや裾がパタパタ鳴っている。澄んだ夜空を見上げる目に、折りしもすうっと流れていった星ひとつ。句は「流れ星」を点景として、強い風のなかに立っている自分をクローズアップしているのだ。すなわち、自己愛に満ちた青春謳歌と読んでおきたい。古来、多く「流星」の句は、星に重点を置きクローズアップしてきたが、このように星をいわば小道具に用いた例は珍しいののではなかろうか。なお、掲句は本年度の「第20回俳句研究賞」受賞作五十句のうち。他に「ふたりしてかたき杏を齧りけり」「手から手へうつして螢童子かな」「寒施行きのふの雨を踏みながら」などがある。素直で難のない詠みぶりが評価された。作者の苗字は「たいなか」と読む。「俳句研究」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


April 1542006

 魚島や雨ふりさうな葉のゆらぎ

                           対中いずみ

語は「魚島(うおじま)」で春。山の子ゆえ海のことにはうとく、この季語にもまったく馴染みがない。手元の角川版歳時記から、定義を引き写しておく。「四〜五月になると鯛や鰆などが瀬戸内海に入り込み、海面にあたかも島のようになってひしめきあう。この時期を『魚島時』といい『魚島』はそれを略した形で、豊漁をさすこともある。瀬戸内海地方の方言。燧灘に浮かぶ魚島は鯛漁で有名で、ここの港が語源ともいわれる」。また他の歳時記によれば、兵庫、岡山など瀬戸内海に面した地方では、この時期に鯛の市が立つそうで、これもまた「魚島」と言うとある。総合して考えると、要するに「魚島」とは、瀬戸内海の海の幸の豊饒期をさす季語ということになる。掲句からだけでは、作者が実際に魚島を見ているのかどうかはわからないが、しかし、豊穰感はよく伝えられていると思った。それはむろん「雨ふりさうな」曇天と心理的に関係していて、抜けるような青空の下では得られない種類の思いが込められている。すなわち何も魚の群れとは限らないのだけれど、ものみな晴天下では躍動感こそあれ、それはそのまま心理的に中空に抜けてしまうのに対して、曇天下では逆に内面に貯め込まれるようなところがある。いまにも降り出しそうな気配を周辺の「葉のゆらぎ」に感じて、作者は「魚島時」独特の充実感、豊穰感が盛り上がってくるのを、全身で感応しているのであろう。曇天もまた、春の醍醐味なのである。『冬菫』(2006)所収。(清水哲男)


October 16102006

 一斉に椅子引く音や秋燕

                           対中いずみ

語は「秋燕」、「燕帰る」の項に分類。すぐ近くに小学校があって、よく脇を通る。ときどき感じることだが、同じように運動場に子供が一人もいなくても、休日とそうでない日との学校の感じは全く違う。あれは、どうしてだろうか。休日の構内には誰もいないという知識があるからかとも思うが、どうもそうでもないようだ。むろんよく耳を澄ませば、登校日の学校からはいろいろな音が聞こえてくるはずだが、いつもそんなに意識して通っているわけじゃない。なんとなく通りかかっただけで、休日の学校には生気がないなと思われるのだ。たとえ見えなくても、そこに人がいるとなれば、なんらかの気が立ち上っているような感じを受けるもののようだ。そう仮定すると、そんな学校の気がいちばん高まるのは、やはり終業時だろう。朝からの勉強に抑圧された子供たちの気持ちが、一挙に開放される瞬間だ。揚句の一斉に椅子を引く音には、子供たちの嬉しい気持ちがこもっている。晴天好日の午後。校庭にはまもなく南に渡っていく燕らが飛び交い、もうすぐ勉強が終わった子供らがぞろぞろと出てくる時間。すなわち、学校の気が最も高まり充実するときを迎えたわけで、その限りにおいてはさながら祝祭のときのようである。だが、その気の高まりはわずかな時の間で、すぐに退いてしまうことを作者は知っている。子供らはそれぞれに散っていき、秋の燕はこれっきりもう姿を見せないかもしれない。最も充実した時空間は、常にこのような衰退の兆しを含んでいる。理屈をこねれば、そういう句だ。気の高まりのなか、一抹の寂しさを覚える人情の機微がよくとらえられている。『冬菫』(2006)所収。(清水哲男)


July 3172012

 踵より砂に沈みて涼しさよ

                           対中いずみ

んざりするほど暑い日が続くと、句集を開くときでさえ、わずかな涼感を求めるようにページを繰る。不思議なことにそんなときには吹雪や凩の句ではなく、やはり夏季の俳句に心を惹かれる。遠く離れた冬ではあまりにも現実から離れすぎてしまうためかもしれない。掲句には奥深くを探る指先にじわりとしみるような涼を感じた。人間が直立二足歩行を選択してから、踵は身体の重さを常に受け止める場所となった。細かい砂にじわじわと踵が沈む感触は、地球の一番やわらかい場所に身体を乗せているような心地になる。あるいは、波打際に立ったときの足裏の、砂と一緒に海へと運ばれてしまうようなくすぐったいような悲しいような奇妙な感触を思い出す。暑さのなかに感じる涼しさとは、どこか心細さにつながっているような気がする。〈ひらくたび翼涼しくなりにけり 前書:田中裕明全句集刊行〉〈この星のまはること滝落つること〉『巣箱』(2012)所収。(土肥あき子)


April 2942013

 かく甘き玉子焼なれ若楓

                           対中いずみ

葉若葉の季節になってきた。どの木々のみどりも美しいが、楓(かえで)のそれは抜きんでている。ハイキングでの昼食の時間だろうか。玉子焼きは弁当のおかずの定番といってよいだろうが、作者はこのときの甘い味に大いに満足して、玉子焼きはいつもこのような甘さであるべきだと悦に入っている。若い楓の葉が発する清らかな風のなか、さぞかしおいしかったろうなと、生つばが出てきそうな句だ。食べ物の句は、すべからくこのようにあるべきだ。またぞろ貧乏話で恐縮だが、子供の頃、我が家では鶏を飼っていたけれど、卵はめったに口に入らなかった。現金収入を得るための大事な商品だったからだ。何かの拍子に傷ついたり割れたりしてしまい、売り物にならなくなった卵一個を弟と分けあったことを思い出す。生卵をきちんと半分ずつに分けるだなんて、至難の業である。当然、喧嘩になった。食べ物を争う喧嘩ほど悲しいものはない。このような句が現れてくるなど、想像もつかなかった時代もあったということである。『巣箱』(2012)所収。(清水哲男)


July 2572015

 見てをれば星見えてゐる大暑かな

                           対中いずみ

年、二十四節気の大暑は二十三日の木曜日だった。村上鬼城に〈念力のゆるめば死ぬる大暑かな〉の句があるが、しばらくは続くであろう極暑の日々を思うとまさに実感、という気がしてくる。鬼城句に対して掲出句は、もう少しゆるりとした大暑の実感だ。夕暮れ時となればさすがに暑さもややおさまって、窓を開けて空を仰ごうという気も起きる。そんな時、初めは何も見えないけれどそのうちに目が慣れてぽつりぽつりと星が見えてくる、という経験は誰にもあるはずだが、見えてゐる、によってまさに、いつのまにか、という感覚が巧みに表現されている。そして、ああ本当に今日も暑かった、とさらにぼんやりと空を見続けてしまうのだろう。『巣箱』(2012)所収。(今井肖子)




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