十月も今日でお終い。さあ大変。十一月の看板のことを忘れてた。このままズルズルか。




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October 31102005

 子等に試験なき菊月のわれ愉し

                           能村登四郎

語は「菊月」で秋、「長月」に分類。陰暦九月の異称で、陽暦十月上旬から十一月初旬の候。むろん、菊の咲く時期ゆえの命名である。作者、教員時代の句だ。したがって、「子等」は自分の子供ではなく、教えている生徒たちを指している。「試験」がなければ、もちろん生徒たちは愉(たの)しい。しかしこの句を読むまでは、言われてみればなるほどと思ったけれど、教師もまた愉しいものだとは思いもしなかった。私が生徒だったころには、試験中の先生は授業をしなくてもいいので、ずいぶん楽なんだろうなあくらいの認識しかなかった。浅はかの極みではあったが、しかし生徒の先生に対する意識なんぞは、いつの時代にもだいたいがそんなものなのだろう。長じて知るのは親の恩ばかりではなく、教師の恩もまた然りというわけだ。屈託なく伸び伸びと動き回る子等を見て、作者は慈愛を含んだまなざしで微笑している。ところで、この句は昔のものだからこれでよいのであるが、現代だとちょうど「中間テスト」の時期に当たっているので、生徒も教師も「菊月」は憂鬱なシーズンと化してしまった。秋の運動会が終わると、次は試験という学校が多い。私くらいまでが、中間テストのなかった世代ではなかろうか。高校に入ったときにはじめて本格的な中間テストがあって、さすがに高校は勉強の場なんだと感心した覚えがある。それがいまや中間テストは小学生にまで及んでおり、せっかくの良い季節も濁りを帯びている。何をか言わんや、だ。『合本俳句歳時記』(1997)所載。(清水哲男)


October 30102005

 ラヂオつと消され秋風残りけり

                           星野立子

語は「秋風」。「ラヂオ」という表記の時代には、携帯ラジオはなかった。したがって、作者は庭など戸外にいるのだが、聞こえているのは家の中に置いてある「ラヂオ」からの音だ。それも耳を澄まして聴いていたわけではなく、なんとなく耳に入っていたという程度だろう。そんな程度だったが、誰かに「つと消され」てみると、残ったのは「秋風」ばかりという感じで、あたりの静けさがにわかに心に沁みたというのである。静寂を言うのに、婉曲に「秋風残りけり」と余韻を持たせたところが心憎い。いかにも、俳句になっている。この句でふっと思い出したが、昔は表を歩いていても、よくラジオの音が聞こえてきたものだった。ということは、どこの家でも大きな音で聞いていたことになる。永井荷風は隣家のラジオがうるさいと癇癪を起こしているし、太宰治「十二月八日」の主婦は、やはり隣家のラジオでかつての大戦がはじまったことを知ったことになっている。なぜ大きな音で聞いていたのだろうか。と考えてみて、一つには昨今の住宅との密閉度の差異が浮かんでくるが、それもあるだろう。が、いちばんの理由は、現在のように音質がクリアーでなかったからではあるまいか。雑音が激しかった。つまり、大きな音で鳴らさないと、たとえばアナウンサーが何を言っているのかがよく聞き取れなかったせいだと思うのだが……。学校の行き帰りに、どこからともなく聞こえてきたラジオ。懐かしや。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


October 29102005

 震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う

                           池田澄子

震度
季句。「襖(ふすま)」は冬の季語だが、地震は何も冬に限らない。句は、家人との会話だ。揺れたのだが、ほどなくして治まった。腰を浮かすほどの揺れでもなかった。やれやれと「襖ごしに」、いまのは「震度2ぐらいかしら」と問いかける。問いかけるのだが、別に答えを求めているわけではない。たいした揺れではなかったと、むしろ自己納得のための独白に近い。襖ごしの部屋にいる人も「ああ」とか「そうだな」とか、適当に相槌を打ったことだろう。会話とも言えない会話。家族間では、けっこう頻繁だ。だから掲句は、読者のそんな思い当たりを誘って、微笑を呼ぶのである。それにつけても、この「震度」という数字を伴った用語は、短期間によく浸透したものだ。それまで体感的に「弱震」だとか「中震」だとか言っていたのを、気象庁が1996年(平成八年)から今のように十段階の数字として発表するようになった。以後、まだ十年も経っていない。浸透したのは、やはり数字のほうが明晰だからだろうか。でも、考えてみれば、この明晰さは地震計のものであって人間のそれではない。なのに私たち人間までが、むろん私もだが、掲句のように体感を数値化しようとする。つまり、気象庁の発表よりも早く数値化することで、早く落ち着きたいのである。厳密に言えば、できない相談をやっていることになるわけで、そんなところにもこの句から何とはない可笑しさが滲み出てくる所以があるのだろう。図版は気象庁のHPより。皮肉にも、地震計でないと震度をきちんと数値化できないことがよくわかる絵だ。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)




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