November 012005
寄る家のなき本籍地暮の秋
望月哲土
季語は「暮の秋」。秋も終りに近づいた季節・気候の感じを言う。作者は出張か旅行かで、たまたま「本籍地」のあたりを通りかかったのだろう。子供の頃に住んでいたところか、あるいは暮らしたことのない父方の故郷なのかもしれない。いずれにしても、もはや知る人もなく、訪ねる家もない。冷たい風が吹いていて、そぞろ寒さが身に沁みてくる。本籍地ということで、日頃はその土地の名前などに何となく親しみを覚えてはいるのだけれど、いざそこに立ってみると、見知らぬ異郷でしかないのである。ご存知のように、本籍地はどこにでも定めることができる。が、私もそうだが、自分と何らかの関わりを持つ土地に決めるのが普通だろう。私は結婚を機に、それまでの本籍地であった父の田舎から、最初に住んだ街に移した。移したのは、父の田舎のままにしておくと遠いので、戸籍謄本の取り寄せなどにひどく時間がかかったためである。以後、そういうときには歩いて数分の区役所に出向けばよく、ずいぶん便利にしていた。しかし、その後の転居の際には同じ都内でもあり、そのまま打っちゃっておいたら、やはり何かの折りには郵便でのやりとりを余儀なくされ、その度に変えようとは思うのだが、性来の無精が勝った格好で、まだそのまんまにしてある。その本籍地には、もう寄る家もないし、人の出入りが激しい都会だから、たぶん知る人も少なくなっているだろう。機会があれば立ち寄ってみたいとは思うけれど、おそらく掲句のような心情になるのがオチというものではなかろうか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)
October 132010
全山をさかさまにして散る紅葉
岡田芳べえ
今年は猛暑のせいで曼珠沙華の開花が遅かった、と先日のテレビが報道していた。紅葉はどうなのだろうか? 直近の情報をよく確認して出かけたほうがよさそう。紅葉は地域によってまちまちだが、今はまだ「散る」というタイミングではないのかもしれない。たしかに紅葉は木の枝から地上へ、つまり天から地へと散るわけだけれども、芳ベえは天地をひっくり返してみせてくれた。そこに俳句としてのおもしろさが生まれた。自分ではなく対象をひっくり返したところがミソ。風景をさかさまにすれば、紅葉は〈地上なる天〉から〈天なる地上〉に散ることになるわけだ。山火事のごとくみごとに紅葉している全山を、ダイナミックにひっくり返してしまったのである。天地を逆転させた、そんな紅葉狩りも愉快ではないか。作者はふざけているのではなく、大真面目にこの句を詠んだにちがいない。芳べえ(本名:芳郎)は詩人・文筆家。「俳句をつかんだと思った時期もあったが、それは一瞬ですぐ消えた。つかめないままそれでも魅力を感じるので離れられない」と述懐している。まったくその通り、賛同できますなあ。他に「暮の秋走る姿勢で寝る女」「鍋が待つただそれだけの急ぎ足」などがある。「毬音」(2005)所載。(八木忠栄)
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