第三次小泉内閣。従属感のみで連帯感がない。何か索漠たる秋風が吹き抜けている印象。




2005ソスN11ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 02112005

 城裏や湾一枚に大きな秋

                           渡辺 侃

持ちの良い句だ。この「城」は、萩城である。山口県萩市街北西部、毛利氏三十六万石の居城であったが、現在は石垣と堀のみしか残っていない。城の裏には、句が言うように日本海につづく湾が開けており、天高しの候にはまことに見事な眺めとなる。瑠璃色に凪いだ湾を指して、「湾一枚」とは言い得て妙だ。一昨年の秋、萩城址のある指月山麓から西北寄りの笠山で小中学の同窓会があり、出席した。笠山は日本一の小さい火山としても知られていて、ここは日本海に大きく突き出ている。この日は快晴だったこともあり、中腹のホテルから見た海は素晴らしく、まさに「大きな秋」がどこまでも広がっているのであった。見るたびにいつも思うのだが、太平洋よりも日本海のほうが「海」としての風格は上だ。それはさておき、たくさんの昔のクラスメートと海の見える場所にいることが、何か奇跡のように思われたことが忘れられない。私たちの学校はバスも通わぬ奥深い山の中にあったので、海などは見たこともないという友人は少なくなかった。見たことのある私とても、引っ越しのために乗った汽車の窓からチラチラとでしかなかった。それがいまや、みんなの前にはごく当たり前のように海があったのだ。いっしょに通学していたときから数えて,ほぼ半世紀。短いとも長いとも思える五十年という年月が、いつしか山の子を海にまで容易に連れてくることを可能にしたのである。思い出話に興じつつも、私は何度もそのことを思い、胸を突かれ、何度も「大きな秋」のひろがりに目をやったのだった。平井照敏編『俳枕・西日本』(1991・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 01112005

 寄る家のなき本籍地暮の秋

                           望月哲土

語は「暮の秋」。秋も終りに近づいた季節・気候の感じを言う。作者は出張か旅行かで、たまたま「本籍地」のあたりを通りかかったのだろう。子供の頃に住んでいたところか、あるいは暮らしたことのない父方の故郷なのかもしれない。いずれにしても、もはや知る人もなく、訪ねる家もない。冷たい風が吹いていて、そぞろ寒さが身に沁みてくる。本籍地ということで、日頃はその土地の名前などに何となく親しみを覚えてはいるのだけれど、いざそこに立ってみると、見知らぬ異郷でしかないのである。ご存知のように、本籍地はどこにでも定めることができる。が、私もそうだが、自分と何らかの関わりを持つ土地に決めるのが普通だろう。私は結婚を機に、それまでの本籍地であった父の田舎から、最初に住んだ街に移した。移したのは、父の田舎のままにしておくと遠いので、戸籍謄本の取り寄せなどにひどく時間がかかったためである。以後、そういうときには歩いて数分の区役所に出向けばよく、ずいぶん便利にしていた。しかし、その後の転居の際には同じ都内でもあり、そのまま打っちゃっておいたら、やはり何かの折りには郵便でのやりとりを余儀なくされ、その度に変えようとは思うのだが、性来の無精が勝った格好で、まだそのまんまにしてある。その本籍地には、もう寄る家もないし、人の出入りが激しい都会だから、たぶん知る人も少なくなっているだろう。機会があれば立ち寄ってみたいとは思うけれど、おそらく掲句のような心情になるのがオチというものではなかろうか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


October 31102005

 子等に試験なき菊月のわれ愉し

                           能村登四郎

語は「菊月」で秋、「長月」に分類。陰暦九月の異称で、陽暦十月上旬から十一月初旬の候。むろん、菊の咲く時期ゆえの命名である。作者、教員時代の句だ。したがって、「子等」は自分の子供ではなく、教えている生徒たちを指している。「試験」がなければ、もちろん生徒たちは愉(たの)しい。しかしこの句を読むまでは、言われてみればなるほどと思ったけれど、教師もまた愉しいものだとは思いもしなかった。私が生徒だったころには、試験中の先生は授業をしなくてもいいので、ずいぶん楽なんだろうなあくらいの認識しかなかった。浅はかの極みではあったが、しかし生徒の先生に対する意識なんぞは、いつの時代にもだいたいがそんなものなのだろう。長じて知るのは親の恩ばかりではなく、教師の恩もまた然りというわけだ。屈託なく伸び伸びと動き回る子等を見て、作者は慈愛を含んだまなざしで微笑している。ところで、この句は昔のものだからこれでよいのであるが、現代だとちょうど「中間テスト」の時期に当たっているので、生徒も教師も「菊月」は憂鬱なシーズンと化してしまった。秋の運動会が終わると、次は試験という学校が多い。私くらいまでが、中間テストのなかった世代ではなかろうか。高校に入ったときにはじめて本格的な中間テストがあって、さすがに高校は勉強の場なんだと感心した覚えがある。それがいまや中間テストは小学生にまで及んでおり、せっかくの良い季節も濁りを帯びている。何をか言わんや、だ。『合本俳句歳時記』(1997)所載。(清水哲男)




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