写真の被写体選びは、その日の体調や気分で違ってくる。本日の看板は調子の良い日に。




2005ソスN11ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 06112005

 掌にひたと吸ひつく竹を伐る

                           大島雄作

語は「竹(を)伐る」で秋。昔から「竹八月に木六月」と言い、陰暦の八月が竹、六月が木の伐採の好期とされ、陽暦では九月以降今頃くらいまでが竹の伐り時だ。少年時代、田舎にいたころは、竹はそこらへんにふんだんに生えていたから、何かというと伐ってきて使った。むろん所有者はいたはずだけれど、子供が一本や二本くらい伐るぶんには、黙認されていたようだ。近所の柿や栗を勝手に取って食べても、叱られなかったのと同じことである。釣り竿や山スキーの板、ちゃんばらごっこの刀身や野球のバット、小さい物では凧作りに使うヒゴだとか水鉄砲や竹笛用など。で、掲句を読んで、途端に久しく忘れていた生きた竹の感触を思い出した。懐かしや。句にあるように、たしかに生きている竹は、握ると「掌にひたと吸ひつく」のである。どういうことからなのか、理由は知らない。とりわけて寒い日などには、冷たい竹がひたと吸いつくことを知っているから、握る瞬間にちょっと躊躇したりした。仕事で大量に伐採する大人なら軍手をはめるところなのだが、子供にそんな洒落たものの持ち合わせは無い。ひんやりと吸いついてくる感触を嫌だなと思いながら、鉈をふるったものである。作者もまた、素手で握っている。だから伐ることよりも、吸いついてくる感触にまず意識がいっているわけだが、こう詠むことで、このときの山の生気までがよく伝わってくる。頭では作れない句の典型だろう。『鮎笛』(2005)所収。(清水哲男)


November 05112005

 母よりの用なき便り柿の秋

                           西山春文

語は「柿」で秋。「柿の秋」とあるが、この「秋」は季節を表すのではなく、旬の時期(収穫期)という意味だ。故郷の母親から封書が届いた。一瞬ぎくりとして、何事ならんと読んでみると、特別な用事もない便りだったので、ほっとしている。母の伝える近況や田舎の様子を読んでいるうちに、自然に懐かしくよみがえってきたのは、たわわに実をつけた柿の木のある風景だった。作者は、いわばその原風景からそこで暮らした日々のことなどを思いだして、しばし懐旧の念にふけったのだろう。これが「用ある便り」だったとしたら、そうはいくまい。「用なき便り」の効用である。最近は電話もあるので「用なき便り」も減ってきたとは思うけれど、しかし電話でよしなしごとを長時間しゃべれるのは母娘の間に限られるようで、母と息子が「用なき」長電話をする図はちょっと考えられない。何故なのかはよくわからないが、とにかく昔から男は肉親に対してあまり口をきかないものと相場が決まっているのだ。だから、句の母も「用なき便り」にしたわけである。かくいう私も例外ではなく、母から電話をもらっても三分ともたない。手紙が来てもなかなか返事を出さず、内心で「便りのないのは良い便りと言うじゃないか」とうそぶいたりしている。実にけしからん不肖の息子である。『創世記』(2003)所収。(清水哲男)


November 04112005

 花芒金井克子の無表情

                           秋 尾

語は「(花)芒」で秋。芸能人を詠み込むのは難しいと思う。当人を知らない読者にはむろんわからないし、知っていてもそれぞれに印象が異なる場合も多いからだ。が、掲句は読んだ途端に、金井克子を知らない人には申し訳ないが、私はドンピシャリだと思った。この句、実は会員制の某掲示板に、昨日の午後書き込まれたものである。したがって、作者はあまり公にしたくないのかもしれないが、しかし良いと思った句は委細構わずに紹介するというのが、当歳時記の方針です。どこが良いって、花芒のすらりとしたたたずまいを金井克子のそれに通わせ、しかも花とはいえ、花そのものには何の愛想も無いところを、彼女の無表情に似ていると捉えたところだ。漢字表記を並べたところにも、その雰囲気が良く出ている。「はなすすき」では駄目なのだ。金井克子は十代でバレーのプリマドンナとしてデビューした人だから、顔の表情よりも全身での表現を体得しているはずである。つまり、テレビよりも舞台のほうを得意とする人だ。句の「無表情」は、テレビから受けた印象に違いなく、以前私も見ていて、しばしばその無表情にはヤキモキさせられたものだった。でも、彼女の無表情はどこか魅力的で、後を引く感じがあったのは、多く他の共演者が表情作りに懸命になっていたせいだろう。その落差が強い印象を残すところは、媚を売るなど知らぬげにそっけなく立っている花芒の魅力に通じている。そうだったのか、金井克子は植物にたとえれば花芒だったのか。と、作者のインスピレーションに感じ入ってしまった。掲句に触発されて調べてみたら、彼女も今年で還暦である。そしていまも、元気に舞台はつづけているそうだ。(清水哲男)




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