ペルーのフジモリ元大統領がチリで逮捕。かくまっていた日本政府のコメントや如何に。




2005ソスN11ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 08112005

 秋鯖に味噌は三河の八丁ぞ

                           吉田汀史

欲の秋にふさわしい句だ。季語は「秋鯖(あきさば)」。鯖(夏の季語)は秋になると脂がのって美味になることから、特別扱いの季語になった。味噌煮だろう。鯖の味噌煮はべつだん珍しくはないけれど、我が家のは「味噌」が違う。なにしろ「三河(現・愛知県岡崎市)の八丁」を使っているのだからと、大いに自賛している。この手放しの無邪気さが、ぐんと読者の食欲を誘い出す。読んだ途端に,食べたくなった。といっても、私は八丁味噌煮の鯖を食べたことがない。だいたいが東京では八丁味噌(赤味噌)をあまり食べないせいもあるけれど、街の店などで八丁を使うにしても、他の味噌とブレンドするケースが多いからではなかろうか。純粋に八丁のみで煮ると、かなり酸味がきつそうである。でもきっと、この酸味が鯖にはしっくりと合うのだろう。などと、あれこれ想像してみるのも、こうした俳句の楽しさだ。ところで、鯖の味噌煮といえば、森鴎外の『雁』に特別な役割で登場する。「西洋の子供の読む本に、釘一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話は、青魚(さば)の未醤煮(みそに)が丁度釘一本と同じ効果をなすのである」。『雁』の語り手である「僕」の下宿の夕食に、たまたま鯖の味噌煮が出たために、物語は思わぬ方向へと……。読書の秋です。気になる方は、文庫本でどうぞ。俳誌「航標」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


November 07112005

 立冬の病みて眩しきものばかり

                           荒谷利夫

や、「立冬」。暦の上では、今日から冬です。俳句と無縁な人なら「へえっ」程度ですませてしまうところだろうが、実作者にとっては、しばらく悩ましい日がつづく。体感的に秋でもあり冬でもありと曖昧で、なんとかしてくれと言いたくなってしまう。東京あたりでは、まだ紅葉も見られないというのに……。ところで、天気予報によれば、今日の東京地方は雨のち晴れで、日中の最高気温は26度にもなるという。これでは、秋でも冬でもなく夏である。だが、たとえ夏日になろうとも、季語にこだわる人はやはり冬に対して身構える気持ちにはなるだろう。たとえば風景のどこかに、暗くて寒い冬到来の予兆を嗅ぎ取ったりするだろう。すなわち、今日の心はいくぶん暗鬱なほうへと傾斜してゆく。けれども、それは健康者だからなのであって、病者は違うということを掲句が示している。病身の作者の目は、立冬らしく表に木枯しが吹き荒れていようとも、そこに自然の生命の躍動を覚えて眩(まぶ)しさを感じるというわけだ。何を見ても、自分の病いに比べれば暗いものはなく、素直に「眩しきものばかり」と言えるのである。話はずれるが、年齢的に私はたぶん、人生の立冬くらいのところにいるのではなかろうか。病気とは関係なく、そんな人生の立冬にある目からしても、これまた「眩しきものばかり」の世界を意識せざるを得ない。どんなに馬鹿な(大いに失礼)ガキどもを見ても、みんなキラキラと輝いて見えるようになってきた。やれやれ、である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 06112005

 掌にひたと吸ひつく竹を伐る

                           大島雄作

語は「竹(を)伐る」で秋。昔から「竹八月に木六月」と言い、陰暦の八月が竹、六月が木の伐採の好期とされ、陽暦では九月以降今頃くらいまでが竹の伐り時だ。少年時代、田舎にいたころは、竹はそこらへんにふんだんに生えていたから、何かというと伐ってきて使った。むろん所有者はいたはずだけれど、子供が一本や二本くらい伐るぶんには、黙認されていたようだ。近所の柿や栗を勝手に取って食べても、叱られなかったのと同じことである。釣り竿や山スキーの板、ちゃんばらごっこの刀身や野球のバット、小さい物では凧作りに使うヒゴだとか水鉄砲や竹笛用など。で、掲句を読んで、途端に久しく忘れていた生きた竹の感触を思い出した。懐かしや。句にあるように、たしかに生きている竹は、握ると「掌にひたと吸ひつく」のである。どういうことからなのか、理由は知らない。とりわけて寒い日などには、冷たい竹がひたと吸いつくことを知っているから、握る瞬間にちょっと躊躇したりした。仕事で大量に伐採する大人なら軍手をはめるところなのだが、子供にそんな洒落たものの持ち合わせは無い。ひんやりと吸いついてくる感触を嫌だなと思いながら、鉈をふるったものである。作者もまた、素手で握っている。だから伐ることよりも、吸いついてくる感触にまず意識がいっているわけだが、こう詠むことで、このときの山の生気までがよく伝わってくる。頭では作れない句の典型だろう。『鮎笛』(2005)所収。(清水哲男)




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