何かあると,お偉いさんが頭を下げる。不愉快の増幅。外国の映像では見たことがない。




2005ソスN11ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 09112005

 空狭き都に住むや神無月

                           夏目漱石

語は「神無月」で冬。陰暦十月の異称だ。今日は陰暦の十月八日にあたるから、神無月ははじまったばかりである。神無月の起源には諸説があってややこしいが、俳句の場合には、たいていが神々が出雲に集まるために留守になる月という説を下敷きにするようだ。たぶん、掲句もそうだろう。「則天去私」の漱石ならずとも、私たちは神と聞けば天(空)を意識する。一般的な「神、空に知ろしめす」の観念は、古今東西、変わりはあるまい。私のような無神論者でも、なんとなくその方向に意識が行ってしまう。句の漱石も同じように空を意識して、あらためて都の空の狭さを感じている。こんなに「空狭き都」に住んでいると、神無月同様に、普通の月でもさして神の存在を感じられないではないか。これでは、いつだって神無月みたいなものではないのかと、ひねりを効かせた一句だと読める。ここまで読んでしまうのは、おそらく間違いではあろうが、しかし句を何度も頭の中で反芻していると、この神無月が「例月」のように思えてくるから不思議だ。すなわち、神無月の扱いが軽いのである。その言葉に触発されただけで、むしろ重きは空に置かれているからだ。したがって、このときの漱石は「則天去私」ならぬ「則私去天」の心境であった。と、半分は冗談ですが……。その後「東京には空がない」と言った女性もいたけれど、明治の昔から、東京と神との距離は出雲などよりもはるかに遠かったのである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 08112005

 秋鯖に味噌は三河の八丁ぞ

                           吉田汀史

欲の秋にふさわしい句だ。季語は「秋鯖(あきさば)」。鯖(夏の季語)は秋になると脂がのって美味になることから、特別扱いの季語になった。味噌煮だろう。鯖の味噌煮はべつだん珍しくはないけれど、我が家のは「味噌」が違う。なにしろ「三河(現・愛知県岡崎市)の八丁」を使っているのだからと、大いに自賛している。この手放しの無邪気さが、ぐんと読者の食欲を誘い出す。読んだ途端に,食べたくなった。といっても、私は八丁味噌煮の鯖を食べたことがない。だいたいが東京では八丁味噌(赤味噌)をあまり食べないせいもあるけれど、街の店などで八丁を使うにしても、他の味噌とブレンドするケースが多いからではなかろうか。純粋に八丁のみで煮ると、かなり酸味がきつそうである。でもきっと、この酸味が鯖にはしっくりと合うのだろう。などと、あれこれ想像してみるのも、こうした俳句の楽しさだ。ところで、鯖の味噌煮といえば、森鴎外の『雁』に特別な役割で登場する。「西洋の子供の読む本に、釘一本と云う話がある。僕は好くは記憶していぬが、なんでも車の輪の釘が一本抜けていたために、それに乗って出た百姓の息子が種々の難儀に出会うと云う筋であった。僕のし掛けたこの話は、青魚(さば)の未醤煮(みそに)が丁度釘一本と同じ効果をなすのである」。『雁』の語り手である「僕」の下宿の夕食に、たまたま鯖の味噌煮が出たために、物語は思わぬ方向へと……。読書の秋です。気になる方は、文庫本でどうぞ。俳誌「航標」(2005年11月号)所載。(清水哲男)


November 07112005

 立冬の病みて眩しきものばかり

                           荒谷利夫

や、「立冬」。暦の上では、今日から冬です。俳句と無縁な人なら「へえっ」程度ですませてしまうところだろうが、実作者にとっては、しばらく悩ましい日がつづく。体感的に秋でもあり冬でもありと曖昧で、なんとかしてくれと言いたくなってしまう。東京あたりでは、まだ紅葉も見られないというのに……。ところで、天気予報によれば、今日の東京地方は雨のち晴れで、日中の最高気温は26度にもなるという。これでは、秋でも冬でもなく夏である。だが、たとえ夏日になろうとも、季語にこだわる人はやはり冬に対して身構える気持ちにはなるだろう。たとえば風景のどこかに、暗くて寒い冬到来の予兆を嗅ぎ取ったりするだろう。すなわち、今日の心はいくぶん暗鬱なほうへと傾斜してゆく。けれども、それは健康者だからなのであって、病者は違うということを掲句が示している。病身の作者の目は、立冬らしく表に木枯しが吹き荒れていようとも、そこに自然の生命の躍動を覚えて眩(まぶ)しさを感じるというわけだ。何を見ても、自分の病いに比べれば暗いものはなく、素直に「眩しきものばかり」と言えるのである。話はずれるが、年齢的に私はたぶん、人生の立冬くらいのところにいるのではなかろうか。病気とは関係なく、そんな人生の立冬にある目からしても、これまた「眩しきものばかり」の世界を意識せざるを得ない。どんなに馬鹿な(大いに失礼)ガキどもを見ても、みんなキラキラと輝いて見えるようになってきた。やれやれ、である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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