八年ぶりの詩集『黄燐と投げ縄』(書肆山田)が出ました。概要はここをご覧ください。




2005ソスN11ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 14112005

 目薬に冬めく灯り校正室

                           小沢信男

語は「冬めく」。風物がすっかり冬になっわけではないが、五感を通してそこはかとなく感じられる冬の気配を言う。掲句の「冬めく」は、まさにこの本意にぴったりの使い方だ。雑誌の編集者は最後の追い込み段階になると、印刷所にある「校正室」に出かけていく。昔の印刷所は二十四時間稼働していたので、編集者側も徹夜で校正することが多かった。なにしろ長時間、原稿とゲラ刷りをにらんでの仕事だから、よほど目の良い人でも、そのうちにしょぼしょぼしてくる。そんなときには、とりあえず「目薬」をさす。この句は、目薬をさしたすぐ後の印象を詠んだものだろう。さしたばかりの目薬が目に馴染むまでの数秒間ほど、あたりのものがぼやけて写り、なかで「灯り(あかり)」はハレーションを起こして滲んで見える。このときに作者は、その灯りにふっと冬の気配を感じたというわけだ。電灯などの灯りに季節ごとの変化などないはずなのに、そこに「冬めく」雰囲気を感じるというのは、五感の不思議な働きによるものである。また、編集者体験のある人にはおわかりだろうが、この句のさらなる魅力は、根を詰めた仕事から束の間ながら解放されたときの小さな安らぎを描いている点だ。まことにささやかながら、こんなことでも気分転換になるのが校正というものである。校正で大事なことは、原稿の意味を読んではいけない。ただひたすらに、一字ずつ間違いがないかどうかをチェックする索漠たる仕事なのだ。だから、目薬も単なる薬品以上の効果をもたらす必需品とでも言うべきか。元編集者としては、実に懐かしい抒情句と読んでしまった。『足の裏』(1998)所収。(清水哲男)


November 13112005

 枯園に向ひて硬きカラア嵌む

                           山口誓子

のところ、にわかに冬めいてきた。紅葉が進み、道に枯葉の転がる音がする。季語は「枯園(かれその)」で冬。草も木も枯れた庭や公園を言う。他の季節よりも淋しいが、冬独特のおもむきもある。作者は窓越しにそんな庭を見ながら、{カラア(collar)}を嵌(は)めている。さびさびとした庭に向かってカラーを嵌めていると、首筋に触れるときの冷たさが既に感じられ、それだけで心持ちがしゃきっとするのである。冬の朝の外出は嫌なものだけれど、カラーにはそんな気持ちを振り払わせる魔力がある。というよりも、カラーを嵌めることで、とにかく出かけねばならぬと心が決まるのだ。その意味では、サラリーマンのネクタイと同じだろう。今日この句を読むまでは、カラーのことなどすっかり忘れていた。小学生から大学のはじめまで、ずうっと学生服で通していたにもかかわらず、である。思い出してみると、とにかく句にあるように「硬い」し、それこそ冬には冷たかった。だが不思議なことに、あんな首かせを何故つけるのかという理由は、まったく知らないでいた。一種のお洒落用なのかな(「ハイカラ」なんて言葉もあることだし……)と思ったことはあり、それも一理あるらしいのだが、なによりもまず襟の汚れを防ぐためのものだと知ったのは、カラーに縁が無くなってからのことだった。最近では、ライトにあたると光るカラーが開発されたらしい。真っ黒な学生服で夜道を歩くとドライバーからはよく見えないので、交通安全用というわけだ。なるほどねえ。カラーも、それなりに進化してるんだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 12112005

 子供らの名を呼びたがふ七五三祝

                           福田甲子雄

語は「七五三(祝)」で、冬。「七五三祝」の場合は「しめいわい」と読む。男の子は数え年三歳と五歳、女の子は三歳と七歳を祝う。十一月十五日だが、今日と明日の休日を利用して氏神に詣でるお宅も多いだろう。句の「子供ら」は、お孫さんたちだろうか。たまたまこの年に何人かの祝いが重なって、作者宅に集まった。むろん、直接この年の七五三には関係のない兄弟姉妹も集まっているから、いやまあ、その賑やかなこと。上機嫌の作者は、何かと「子供ら」に呼びかけたりするわけだが、何度も「名前を呼びたがふ(呼び間違える)」ことになって苦笑している。覚えのある読者もおられるに違いない。あれは、どういう加減からなのか。その子の名前を忘れているのではないのだが、咄嗟に別の名前が出て来てしまう。すぐに訂正するつもりで、またまた別の名前を呼んでしまうことすらある。孫大集合などは滅多にないことなので、迎える側が多少浮き足立っているせいかもしれない。でも、それだけではなさそうだ。考えてみれば名前は人を識別する記号だから、識別する必要のない環境であれば、名前などなくてもよい理屈だ。掲句のケースだと、たくさんの孫に囲まれて作者は大満足。環境としては、どの孫にも等分の愛情を感じているわけで、すなわち記号としての名前などは二の次となる。だから「呼びたがふ」のも当たり前なのだ。と思ってはみるものの、しかしこれはどこか屁理屈めいていそうだ。何故、しばしば間違えるのか。どなたか、すかっとする回答をお願いします。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)




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