November 182005
焼藷を買ひ宝くじ買つてみる
逸見未草
季語は「焼藷(やきいも)」で冬。いよいよシーズンですね。我が家の近辺にも、毎晩のように売りにきます。いわゆる流しの焼芋屋がうまれたのは、明治期と言われています。ただし、掲句の焼藷は流しから買ったのではなく、近くに宝くじ売り場があるのですから、町中の店からでしょう。良い匂いに誘われて、作者はふと買う気になって焼藷を買った。小さな衝動買いというわけだが、ほこほこと暖かい包みを手にして歩きはじめると、今度は宝くじ売り場が目にとまり、これまたなんとなく何枚かを買ったというのである。ただそれだけのことながら、読者にはこのときの作者の気持ちがよくわかるような気がする。それは句によって、作者の心のゆとりが感じられるからだ。焼藷も宝くじも、べつに一大決心して買うようなものじゃない。かといって、心が気ぜわしかったりすると、そんなものの前は通り過ぎてしまう。こういうものが目にとまるのは、その人の心に普段よりも余裕があるせいである。余裕があるからたわむれに焼藷を買い、連鎖反応的に宝くじを求める気持ちわいてきた。ほこほこと手に暖かい焼藷と、宝くじに当るかもしれないという心の暖かさとが、読者をもなごませる……。でも不思議なもので、この買い物の順序が逆だと、句の印象はまったく変わってしまう。最初に宝くじを買ったとすると、これは衝動買いではなく、意識的に目がけての買い物になってしまうからだ。で、次に焼藷と来ては、作者がなんだか世知辛い世の中であくせくと生きているように思えてきて、わびしくすら感じられる。この句では、この順序が大切なのだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|