俳句同人誌「ににん」五周年記念祝賀会。正午からのパーティは珍しい。しかも和食だ。




2005ソスN11ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 26112005

 北陸や海照る屋根の干布団

                           岡本 眸

語は「(干)布団」で冬、「蒲団」に分類。句は「富山三句」のうち。富山には秋にしか行ったことがないが、テレビの天気予報で見ているだけでも、富山をはじめ冬の「北陸」地方の晴れ間は多くないことがわかる。連日のようにつづく鈍色の空。それがたまに良く晴れたとなると、きっと句のような情景があちこちで見られるのだろう。二階の窓から屋根いっぱいに干された布団が、海への日差しの照り返しも受けてほっこりと暖まってゆく光景である。一見なんということはない句だけれど、この情景はそれだけで読者の心をほっこりとさせる。しかも「北陸や」と大きく張った句柄が、いやがうえにもほっこり感を大きくしてくれるのだ。さすがは富安風生門らしい詠みぶりである。東京あたりでは一戸建ての住宅が少なくなったせいもあるけれど、なかなかこういう情景にはお目にかかれない。それに昔から、屋根に直接布団や干し物を広げる習慣もなかったようだ。ここ数年のうちで私が目撃した珍しい例では、干してあるのではなかったが、初夏の屋根いっぱいに鯉のぼりを広げたお宅があった。新築の一戸建て。きっと前に住んでいた家では大きな鯉のぼりを立てるスペースがあったのに、引っ越してきてそれがなくなってしまったのだ。だから仕方なく……、ということのようだと思ってしばらく見ているうちに、なんだかとても切ない気持ちになったことを思い出す。「俳句」(2005年12月号)所収。(清水哲男)


November 25112005

 茹ブロッコリー団塊世代物申す

                           金崎久子

語は「ブロッコリ(ー)」で冬。一年中出回っているが、旬は十一月〜二月頃である。なるほど、ブロッコリの花のつぼみは「団塊」状になっている。作者は団塊の世代なのだろうが、茹でたブロッコリを口に運ぼうとして、ふっと自分の世代に似た野菜だなと思い、見直すと何か「物申す」ような、いかにも物言いたげな表情に見えたというのである。いわゆる「2007年問題」を前にしたいま、この句を読む同世代の人たちには大いに共感を呼びそうだ。2007年以降、この国はヨーロッパなどに先駆けて、本格的な高齢者時代を迎える。そして、そのすぐ先には「超」高齢化社会が待ち受けている。こんなにも高齢者が多い社会は人類はじまって以来であり、古今東西のどんな国や地方も一度も経験したことはないのだ。人口統計上では予測されていたとはいえ、とにかく未知の世界なのだから、実際にはじまってみなければわからないことばかりだ。おそらくは、予想もしなかった事態がいろいろと起きてくるにちがいない。とどのつまりは、国家による強制的安楽死が具体化するかもしれないし、そこまではいかなくともそれに準じた高齢者の扱いが検討されるだろう。いずれにしても高齢者人口の中核をなす団塊の世代が、そんな状況に唯々諾々と従い、座して死を待つわけにはいかない。いまのうちから、大いに「物申す」必要がある。何も好きこのんで団塊世代を選んで生まれてきたわけではないのだから、ブロッコリのようにみないっしょくたに茹でられるいわれはない。自分たちの力で、つまはじきしにくる奴らと闘いつつ生きつづけなければならないだろう。『花の歳時記 冬・新年』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


November 24112005

 校則で着るやうなセーターを着て

                           田口 武

語は「セーター」で冬。何の気なしに、ふと自分の着ているセーターのことが気になった。色は、紺色だろうか。首周りはVネックで、まことに変哲もないものだ。若いときにはお洒落を意識して、「校則」に抵触するかしないかのぎりぎりのセーターを着たものだったが、いま身につけているのは校則の指示にあった見本みたいな代物である。若さ、お洒落。そういうものから完全に離れてしまった自分に、ひとり作者は苦笑している。作者四十代の句であるが、この句への反応は読者の世代によってまちまちだろう。校則が戦後の生徒を縛りはじめたのは、この国が高度成長期にさしかかったころからだからだ。私の中学高校時代には日本全体が貧乏だったので、あるにはあった校則も十分に機能していなかった。とくに服飾に関しては、あれこれとうるさい規則を設ける以前の問題として選択肢が少なかったし、それよりも何よりもとにかく当座の服装を何とかすることで精一杯だった。お洒落をする経済的な余裕などなかったわけで、学校でセーターの色や形まで決めるなどはナンセンスの極みと言おうか、近未来にそんな校則が登場することになろうなどとは露思わない世代だったということになる。したがって、私には実感的には掲句はわからない。ただ、ずっと後の世代でないと作れない句だなと見入ってしまったのだ。句に触発されて現今の校則をいくつか読んでみて、とりわけて女子高のやかましさ(制服規定はもちろん、髪型からスカート丈まで)は凄いものだと、これまた見入ってしまったことである。『さうぢやなくても』(2005)所収。(清水哲男)




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