December 042005
天を発つはじめの雪の群れ必死
大原テルカズ
季語は「雪」。私は擬人化をあまり好まないが、掲句の場合は必然性が感じられる。というのも、この「雪の群れ」のどこかには作者自身も存在するからだ。「はじめの雪」とあるが、いわゆる初雪ではあるまい。降りはじめる最初の「雪の群れ」だと思う。これから地上に降りて行かねばならぬわけだが、そこがどんな所なのかの情報もないし、それよりも前に途中で何が起きるのかもわからない。条件によっては、地上に到達する前に我が身が溶けて消滅する危険性もある。しかし、もはや躊躇は許されない。仲間も揃った。機は熟したのだ。瞑目して、「天を発(た)つ」しか道はないのである。昔の人間たちの落下傘部隊もかくやと思われる「必死」の様が、よく伝わってくる。このときに地上の人間たちは、呑気にも「雪催(ゆきもよい)」の句なんぞをひねっているかもしれない。そう連想すると、なおさらに「必死」度が際立つ。作者がどんな状況で発想した句なのかは、何も知らない。だが、きっと仲間たちといっしょに、何か新しいことをはじめようと決意したときの作品ではなかろうか。前途には一筋の光明すらも見えないが、しかし、発たねばならぬ。発たなければ,何もはじまらない。どうせ「残るも地獄」であるのなら、我が身はか弱い雪のひとひらでしかないけれど、ここを出発することで生きる希みを掴みたい。この「必死」にして、この「俳句」なのだ。『黒い星』(1959)所収。(清水哲男)
February 212008
牡丹雪紺碧の肉天奥に
大原テルカズ
春先にひらひらと舞う牡丹雪。大きな雪片が牡丹の花びらに似ているのでこの名がついたのだろう。「牡丹」という言葉に触発されて雪でありながら紅が連想され不思議に美しい。牡丹雪が降ってくる空は重たい灰色の雲で覆われてはいるが、その奥に青空の一部が覗いている。説明してしまえばそれだけだが、この句は景を描写しているのではない。仕掛けられた言葉の連想の背後には作者の存在が光っている。「紺碧の肉」は青空の表現としては異質であるが、内面の痛みを読み手に感じさせる。牡丹雪を降らせる雲の切れ目は彼自身の心の裂け目なのだろう。「彼が秘かに貯えてきた多くの財宝─幼なさ、卑しさ、愚かさ、古さ、きたならしさ、ひねくれ、独り、独善、恣意と彼が呼ぶところのもの」を俳句に結晶させた。と、句集の序文で高柳重信が述べている。戦後の混乱の暮らしの中で彼自身が掴み取った精神の履歴が、従来の俳句に収まらない言葉で表現されている。「ポケットからパンツが出て来た淋しい虎」「血吐くなど浪士のごとしおばあさん」作者にとって俳句は混乱した現実を自分に引き寄せる唯一の手段であり、句になった後はもはや無用と振り返ることもなかっただろう。『黒い星』(1959)所収。(三宅やよい)
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