December 052005
赤城山から続くもみぢの草紅葉
青柳健斗
季語は「草紅葉」で秋。小さな名もない草々も紅葉する。美しい句だ。心が晴れる。この句の良さは、まず日常的な自分の足下から発想しているところだ。紅葉は高い山からだんだん麓に降りてくるので、たいていの句はその時間系にしたがって詠まれてきた。すなわち、作者の目は高いところから低いところへと、紅葉を追って流れ降りるというわけだ。が、掲句は違う。最初は,逆から発している。ふと足下の草が紅葉していることに気づき、目をあげてみれば、その紅はどこまでもずうっと続いていて、果てははるか彼方の赤城山にまで至っている。そこでもう一度、作者の目は赤城山から降りてきて、足下の草紅葉に辿り着いたのである。句では前半の目の動きは省略されており、後半のみが描かれているから、多くの従来の句と同じ時間系で詠まれたものと間違えやすい。しかし、よく読めば、足下から山へ、そして山から足下へと、この視線の往復があってこその句であることがわかってくるはずだ。それがわかったときに、同時に作者の立つ関東平野の広大さも想起され、比べてとても小さな草紅葉に注がれた作者の優しいまなざしがクローズアップされて、句は美しく完結するのである。こうした往復する視線で描かれた紅葉の句は、珍しいのではなかろうか。類句がありそうでいて、無さそうな気がする。上州赤城山。何度も見ているが、そういえば紅葉の季節は知らないことに、掲句を読んで気がついた。俳誌「鬣 TATEGAMI」(第17号・2005年11月)所載。(清水哲男)
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