寒波襲来。今日は寒い一日になりそうだ。西日本にも雪の予報。が、出かけなければ…。




2005ソスN12ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 05122005

 赤城山から続くもみぢの草紅葉

                           青柳健斗

語は「草紅葉」で秋。小さな名もない草々も紅葉する。美しい句だ。心が晴れる。この句の良さは、まず日常的な自分の足下から発想しているところだ。紅葉は高い山からだんだん麓に降りてくるので、たいていの句はその時間系にしたがって詠まれてきた。すなわち、作者の目は高いところから低いところへと、紅葉を追って流れ降りるというわけだ。が、掲句は違う。最初は,逆から発している。ふと足下の草が紅葉していることに気づき、目をあげてみれば、その紅はどこまでもずうっと続いていて、果てははるか彼方の赤城山にまで至っている。そこでもう一度、作者の目は赤城山から降りてきて、足下の草紅葉に辿り着いたのである。句では前半の目の動きは省略されており、後半のみが描かれているから、多くの従来の句と同じ時間系で詠まれたものと間違えやすい。しかし、よく読めば、足下から山へ、そして山から足下へと、この視線の往復があってこその句であることがわかってくるはずだ。それがわかったときに、同時に作者の立つ関東平野の広大さも想起され、比べてとても小さな草紅葉に注がれた作者の優しいまなざしがクローズアップされて、句は美しく完結するのである。こうした往復する視線で描かれた紅葉の句は、珍しいのではなかろうか。類句がありそうでいて、無さそうな気がする。上州赤城山。何度も見ているが、そういえば紅葉の季節は知らないことに、掲句を読んで気がついた。俳誌「鬣 TATEGAMI」(第17号・2005年11月)所載。(清水哲男)


December 04122005

 天を発つはじめの雪の群れ必死

                           大原テルカズ

語は「雪」。私は擬人化をあまり好まないが、掲句の場合は必然性が感じられる。というのも、この「雪の群れ」のどこかには作者自身も存在するからだ。「はじめの雪」とあるが、いわゆる初雪ではあるまい。降りはじめる最初の「雪の群れ」だと思う。これから地上に降りて行かねばならぬわけだが、そこがどんな所なのかの情報もないし、それよりも前に途中で何が起きるのかもわからない。条件によっては、地上に到達する前に我が身が溶けて消滅する危険性もある。しかし、もはや躊躇は許されない。仲間も揃った。機は熟したのだ。瞑目して、「天を発(た)つ」しか道はないのである。昔の人間たちの落下傘部隊もかくやと思われる「必死」の様が、よく伝わってくる。このときに地上の人間たちは、呑気にも「雪催(ゆきもよい)」の句なんぞをひねっているかもしれない。そう連想すると、なおさらに「必死」度が際立つ。作者がどんな状況で発想した句なのかは、何も知らない。だが、きっと仲間たちといっしょに、何か新しいことをはじめようと決意したときの作品ではなかろうか。前途には一筋の光明すらも見えないが、しかし、発たねばならぬ。発たなければ,何もはじまらない。どうせ「残るも地獄」であるのなら、我が身はか弱い雪のひとひらでしかないけれど、ここを出発することで生きる希みを掴みたい。この「必死」にして、この「俳句」なのだ。『黒い星』(1959)所収。(清水哲男)


December 03122005

 さすらえば白菜ゆるく巻かれている

                           田口満代子

語は「白菜」で冬。「さすらい」とは社会と自分との関係が見定め難く、あるいはまた見定めた上でも適合し難く、しかるがゆえに当て所なくさまよう状態のことを言うのであろう。かつて小林旭が日活映画で歌った同名の歌詞の二番は、次のようであった。「知らぬ他国を 流れながれて 過ぎてゆくのさ 夜風のように 恋に生きたら 楽しかろうが どうせ死ぬまで ひとりひとりぼっちさ」(作詞・西沢爽)。狛林正一の曲も名曲で泣かせるが、しかしこの「さすらい」は庶民から見た自由への憧れが強調されすぎていて一面的である。よく読むと、主人公の居直りだけなのであり、実はここには主人公の独白と見せて、そうではない庶民の願望が一方的に投影されているに過ぎない。むろん娯楽作品だから、これで良いのではあるが……。そこへいくと掲句は、「さすらい」の心象風景をおのれの実感に根ざして掴もうとしている。社会とどうにも折り合いのつかぬ気持ちのままに生きている目には、何もかもが中途半端に見えてしまう。いや、中途半端なものにこそ、自然に目が行ってしまうと言うべきか。ゆるく巻かれている「白菜」は、その象徴だ。さすらっていない心には、この白菜には何も感じない。感じたとしても、やがては固く巻かれていくだろうと楽天的に思うのみである。だが、作者のこのときの心境としては、この中途半端な巻かれ方がいわば絶対として固定されているかのように思えていたのだ。「さすらえば」の条件を「白菜」の様子で受ける意外性とあいまって、掲句のポエジーは読者の弱い部分にじわりと浸透してくる。『初夏集』(2005)所収。(清水哲男)




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