開戦の日。どのような意味であれ、この日に胸のどよめきを覚えた人々は少なくなった。




2005ソスN12ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 08122005

 老人と漫画しずかな十二月

                           新保吉章

語は「十二月」。私には意味不明なれど、「老人」と「漫画」の取り合わせは珍しい。強引に解釈してみた。手持ち無沙汰の老人が、孫が読み散らした漫画本を、片付けがてらにちょっと開いて見ている。描かれている漫画には何の興味もわかないのだが、最近の子供らはこんなものに夢中なのかと、しばし眺めるともなく眺めている図か。たとえば漫画では元気なアンパンマンが走りまわり、ページを繰る老人の手つきはのろのろとしている。漫画の活発と老人の不活発。何かとあわただしい「十二月」だけど、この部屋だけは時間が止まっているかのように「しずか」なのである。これを老人が漫画に夢中だと解釈すると、句にならない。少なくとも、十二月の静けさはどこかに飛んでしまう。しかし、そのうちには漫画に熱中する老人の句が出てくるだろう。「左手に少年マガジン、右手に朝日ジャーナル」と言われた世代が、間もなく老境に入ってくるからだ。そうなると、老人のイメージもだいぶ変わったものになってくる。敬老会では、いつまでも演歌や浪曲などやっていられなくなる。懐かしのアニメ上映会やらポップスのコンサートやらが主流になるはずだ。そうなったときには、掲句の解釈も大いに変更を強いられるにちがいない。というよりも、情景があまりに当たり前すぎて、どこが面白いのかが読者に伝わらない恐れのほうが強そうだ。俳句もむろん、世に連れるというわけである。『現代俳句歳時記 冬・新年』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


December 07122005

 葱白く洗ひたてたるさむさ哉

                           松尾芭蕉

語は「さむさ(寒さ)」で冬。「葱」も冬の季語だが、掲句では「さむさ」がメインだ。なお、この句の「葱」は「ねぶか」と読む(『芭蕉俳句集』岩波文庫)。「ねぶか(根深)」は、白い部分の多い関東の葱で、なかには緑2に対して白8という極端な葱もあったという。さて、つとに有名なこの句は巧いとは思うけれど、あまり良い句だとは思わない。当今の句会に出しても点数は入りそうだが、よく読むと実感の希薄な句なので、ぶっちぎりの一句というわけにはいかないだろう。ミソは、寒さの感覚を視覚的な「白」で伝えたところだ。なるほど、白は寒さを連想させるし、その白が真っ白になるまでの寒い作業も思われて、句のねらいはよくわかる。元禄期の俳句としては、この白い葱の比喩は相当に新しかったにちがいない。しかもわかりやすいし、巧いものである。だが、問題は残る。端的に言えば、この句には「さむさ」の主体が存在しないのだ。寒がっているのは、いったい誰なのだろうか。作者はちっとも寒そうではないし、かといって他の誰かというのでもない。好意的に考えれば、ここで芭蕉は「寒さにもいろいろありますが、こんな寒さもありますよね」と、寒さのカタログのうちの一つを提出してみせているのかもしれない。でも、だとしたら、「さむさ哉」の詠嘆は大袈裟だ。おそらく芭蕉は、寒さの感覚を葱の白さに託すアイディアに惚れ込みすぎて、肝心の寒さの主体を失念してしまったのではなかろうか。私には、作者の「どうだ、巧いだろう」という得意顔がちらついて、嫌みとも思える。おのれの比喩に酔う。よくあることではあるけれど。(清水哲男)


December 06122005

 熊を見し一度を何度でも話す

                           正木ゆう子

語は「熊」で冬。冬眠するので、この季節の熊は洞穴にひそみ姿を現さない。では、何故冬の季語とされているのだろうか。推測だが、活動が不活発な冬をねらって、盛んに熊狩りが行われたためだと思う。さて、掲句。これは人情というものだ。猟師などはべつにして、滅多に見られない熊と遭遇した人は、誰彼となくその体験を話したくなる。近年では住宅街に出没したりもするから、そんな意外性もあって、最初のうちは聞く人も真剣に耳を傾けてくれるはずだ。だが、調子に乗って何度も話しているうちに、やがて周囲は「また熊か」と鼻白むようになってくるが、話す当人は一向に気づかず「何度でも」話したがるという可笑しさ。そんな状況にある人を、作者は微笑して見ている図だ。熊の目撃者に限らずよくある話だが、こうして句に詠まれてみると、読者は「待てよ、自分も同じような話を人にしているかもしれない」と、ちょっぴり不安になるところもあって面白い。そして、もう一つ。この人はおそらく、生涯この話をしつづけるのだろうが、そのうちに時間が経つにつれて、話にも尾ひれがつきはじめるだろう。熊の大きさは徐々に大きくなり、コソコソと逃げ去ったはずが互いに睨み合った話になるなど、どんどん中味は膨らんでゆく。これは当人が嘘をつこうとしているのではなくて、実際の記憶の劣化とともに、逆に熊に特長的な別の要素で記憶を補おうとするからに違いない。つまり、記憶はかくして片方では痩せ、もう片方では太りつづけるのである。掲句からはそんなことも連想されて、それこそ微笑を誘われたのだった。「俳句研究」(2005年12月号)所載。(清水哲男)




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