新潮社テレホンサービス(03-3269-4700)で詩集『黄燐と投げ縄』より朗読しています。




2005ソスN12ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 09122005

 ぬぬつと大根ぬぬぬとニュータウン

                           今富節子

語は「大根」で冬。ははは、これは愉快。対比の妙、言い得て妙。この冬も畑に勢い良く大根が育ち、「ぬぬつ」と伸びてきた。で、はるかあなたを見渡せば、あちらでは幾棟もの高層住宅が「ぬぬぬ」と伸びている。大根は育つものゆえ「ぬぬつ」なのであり、ニュータウンの住宅はもはや育たないので「ぬぬぬ」のままの状態なのである。何気ない表現に見えて、神経が行き届いている。ところで、ニュータウン。句としてはむろんこれで良いのであるが、近づいてみると、いろいろな問題があるようだ。元来ニュータウンは、若い夫婦の入居先に考えられた住宅街で、子育てが終わったら次の世代の夫婦と交替する構想のもとにあった。だが、現実的には地価の高騰などによる住宅難から、スムーズな世代交替は行われず、いまやオールドタウンと言われるところも珍しくはない。「また、行政自らが、住民の共有財産といえる、風土や自然環境を破壊して土地を開発し、その土地の売却で新たな事業資金を得るという、まるで不動産開発業者のような事業形態が多い。その結果、現実の需要に関わり無く、過大な需要予測に基づいて次々に開発を続けて行くといった事態が生じ、特にバブル経済破綻後、これらの事業体が巨額の累積赤字、借入金や売れない土地を抱えている事実が判明して、その処理が大きな社会問題になっている」(「Wikipedia」より)。読者のなかには、ニュータウンにお住まいの方もおられるだろう。遠望すれば「ぬぬぬぬ」の街区にも、諸問題は途切れることなく「ぬぬつ」と頭をもたげつづけているというわけだ。『多福』(2005)所収。(清水哲男)


December 08122005

 老人と漫画しずかな十二月

                           新保吉章

語は「十二月」。私には意味不明なれど、「老人」と「漫画」の取り合わせは珍しい。強引に解釈してみた。手持ち無沙汰の老人が、孫が読み散らした漫画本を、片付けがてらにちょっと開いて見ている。描かれている漫画には何の興味もわかないのだが、最近の子供らはこんなものに夢中なのかと、しばし眺めるともなく眺めている図か。たとえば漫画では元気なアンパンマンが走りまわり、ページを繰る老人の手つきはのろのろとしている。漫画の活発と老人の不活発。何かとあわただしい「十二月」だけど、この部屋だけは時間が止まっているかのように「しずか」なのである。これを老人が漫画に夢中だと解釈すると、句にならない。少なくとも、十二月の静けさはどこかに飛んでしまう。しかし、そのうちには漫画に熱中する老人の句が出てくるだろう。「左手に少年マガジン、右手に朝日ジャーナル」と言われた世代が、間もなく老境に入ってくるからだ。そうなると、老人のイメージもだいぶ変わったものになってくる。敬老会では、いつまでも演歌や浪曲などやっていられなくなる。懐かしのアニメ上映会やらポップスのコンサートやらが主流になるはずだ。そうなったときには、掲句の解釈も大いに変更を強いられるにちがいない。というよりも、情景があまりに当たり前すぎて、どこが面白いのかが読者に伝わらない恐れのほうが強そうだ。俳句もむろん、世に連れるというわけである。『現代俳句歳時記 冬・新年』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


December 07122005

 葱白く洗ひたてたるさむさ哉

                           松尾芭蕉

語は「さむさ(寒さ)」で冬。「葱」も冬の季語だが、掲句では「さむさ」がメインだ。なお、この句の「葱」は「ねぶか」と読む(『芭蕉俳句集』岩波文庫)。「ねぶか(根深)」は、白い部分の多い関東の葱で、なかには緑2に対して白8という極端な葱もあったという。さて、つとに有名なこの句は巧いとは思うけれど、あまり良い句だとは思わない。当今の句会に出しても点数は入りそうだが、よく読むと実感の希薄な句なので、ぶっちぎりの一句というわけにはいかないだろう。ミソは、寒さの感覚を視覚的な「白」で伝えたところだ。なるほど、白は寒さを連想させるし、その白が真っ白になるまでの寒い作業も思われて、句のねらいはよくわかる。元禄期の俳句としては、この白い葱の比喩は相当に新しかったにちがいない。しかもわかりやすいし、巧いものである。だが、問題は残る。端的に言えば、この句には「さむさ」の主体が存在しないのだ。寒がっているのは、いったい誰なのだろうか。作者はちっとも寒そうではないし、かといって他の誰かというのでもない。好意的に考えれば、ここで芭蕉は「寒さにもいろいろありますが、こんな寒さもありますよね」と、寒さのカタログのうちの一つを提出してみせているのかもしれない。でも、だとしたら、「さむさ哉」の詠嘆は大袈裟だ。おそらく芭蕉は、寒さの感覚を葱の白さに託すアイディアに惚れ込みすぎて、肝心の寒さの主体を失念してしまったのではなかろうか。私には、作者の「どうだ、巧いだろう」という得意顔がちらついて、嫌みとも思える。おのれの比喩に酔う。よくあることではあるけれど。(清水哲男)




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