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2005ソスN12ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 10122005

 洛中の師走余所事余所者に

                           田中櫻子

語は「師走」。2006年版の『俳句年鑑』(角川書店)で、櫂未知子が「二〇〇五年の収穫」として、二〇代一〇代という若い俳句の書き手を紹介している。みんな、なかなかなものだ。なかで、気に入った句の一つに掲句があった。気に入ったのは、それこそ私が若い頃、京都に「余所者(よそもの)」として住んでいたことに関係がある。千年の都であり、また観光地でもあるので、京都の四季折々には他の都市とは違って、その都度のメリハリが色濃い。師走になれば四条南座の顔見世興行もあるし、そんな派手さはなくとも店々を覗けば年用意の品が細かいものまで何やかやと並べられている。すなわち、京都はいま街ぐるみで師走の顔をしているというわけだ。だが、街がそのようであればあるほど、余所者の居心地はよろしくなくなる。市内に自宅を持たぬ者にしてみれば年用意も無縁だし、正月に向けての街の動きをただ眺めて過ごすしかないのだから……。だから作者のように、しょせんは「余所事」と突き放してはみるものの、他方では京都の伝統的な床しい正月に参加しそびれる口惜しさも覚えるわけだ。句は、決して「余所事」なので関係がないと言っているのではなく、せっかく京都にいるのに、関係を持とうにも持てないもどかしさを表現していると読んだ。ところで、作者の田中櫻子さんは、詩も書いておられる方ではないでしょうか。ある雑誌の投稿欄で、よくお見かけするお名前です。だとすれば、仕事のために京都にお住まいになったのは二年ほど前でしたよね。間違っていたら、どちらの田中さんにもごめんなさい。俳誌「藍生」(2005年4月号)所載。(清水哲男)


December 09122005

 ぬぬつと大根ぬぬぬとニュータウン

                           今富節子

語は「大根」で冬。ははは、これは愉快。対比の妙、言い得て妙。この冬も畑に勢い良く大根が育ち、「ぬぬつ」と伸びてきた。で、はるかあなたを見渡せば、あちらでは幾棟もの高層住宅が「ぬぬぬ」と伸びている。大根は育つものゆえ「ぬぬつ」なのであり、ニュータウンの住宅はもはや育たないので「ぬぬぬ」のままの状態なのである。何気ない表現に見えて、神経が行き届いている。ところで、ニュータウン。句としてはむろんこれで良いのであるが、近づいてみると、いろいろな問題があるようだ。元来ニュータウンは、若い夫婦の入居先に考えられた住宅街で、子育てが終わったら次の世代の夫婦と交替する構想のもとにあった。だが、現実的には地価の高騰などによる住宅難から、スムーズな世代交替は行われず、いまやオールドタウンと言われるところも珍しくはない。「また、行政自らが、住民の共有財産といえる、風土や自然環境を破壊して土地を開発し、その土地の売却で新たな事業資金を得るという、まるで不動産開発業者のような事業形態が多い。その結果、現実の需要に関わり無く、過大な需要予測に基づいて次々に開発を続けて行くといった事態が生じ、特にバブル経済破綻後、これらの事業体が巨額の累積赤字、借入金や売れない土地を抱えている事実が判明して、その処理が大きな社会問題になっている」(「Wikipedia」より)。読者のなかには、ニュータウンにお住まいの方もおられるだろう。遠望すれば「ぬぬぬぬ」の街区にも、諸問題は途切れることなく「ぬぬつ」と頭をもたげつづけているというわけだ。『多福』(2005)所収。(清水哲男)


December 08122005

 老人と漫画しずかな十二月

                           新保吉章

語は「十二月」。私には意味不明なれど、「老人」と「漫画」の取り合わせは珍しい。強引に解釈してみた。手持ち無沙汰の老人が、孫が読み散らした漫画本を、片付けがてらにちょっと開いて見ている。描かれている漫画には何の興味もわかないのだが、最近の子供らはこんなものに夢中なのかと、しばし眺めるともなく眺めている図か。たとえば漫画では元気なアンパンマンが走りまわり、ページを繰る老人の手つきはのろのろとしている。漫画の活発と老人の不活発。何かとあわただしい「十二月」だけど、この部屋だけは時間が止まっているかのように「しずか」なのである。これを老人が漫画に夢中だと解釈すると、句にならない。少なくとも、十二月の静けさはどこかに飛んでしまう。しかし、そのうちには漫画に熱中する老人の句が出てくるだろう。「左手に少年マガジン、右手に朝日ジャーナル」と言われた世代が、間もなく老境に入ってくるからだ。そうなると、老人のイメージもだいぶ変わったものになってくる。敬老会では、いつまでも演歌や浪曲などやっていられなくなる。懐かしのアニメ上映会やらポップスのコンサートやらが主流になるはずだ。そうなったときには、掲句の解釈も大いに変更を強いられるにちがいない。というよりも、情景があまりに当たり前すぎて、どこが面白いのかが読者に伝わらない恐れのほうが強そうだ。俳句もむろん、世に連れるというわけである。『現代俳句歳時記 冬・新年』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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