たばこ増税分は児童手当に。政府曰く「子供らのためにせっせと煙草を喫おう」(笑)。




2005ソスN12ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 16122005

 年の瀬や隣家は船のごとく消え

                           和泉祥子

語は「年の瀬」で冬、「年の暮」に分類。この慌ただしい季節に、隣家が引っ越していった。「船のように消え」とは、おそらく引っ越していっただけではなくて、住んでいた家がそっくり取り壊されたのではなかろうか。あとは更地だ。長年そこに建っていた家が跡形も無く消えてしまった。長い間港に停泊していた船が、とある日、忽然と出港してしまったかのようである。寂しさもむろんあるけれど、いささか茫然の感もあって、しばし作者は跡地を見入っているのだろう。こういうことは何も「年の瀬」に限ったことではないのだが、作者自身の慌ただしさともあいまって、余計に茫然の感情が色濃くなっているのだと思う。実は現在、掲句とは逆のことが私の身近に起きつつある。秋口にマンションの真向かいの民家が、それこそ忽然と消えてしまい、いま新しい家を建築中だ。なんでもアパートができるという噂である。しかし、建築中の建物にはすっぽりとグリーンのビニール・シートがかぶせられていて、外からでは全容がどうなるのかは窺い知れない。全体が四角く角ばっていて、普通の民家のような造りではなさそうだが、どんな建物が出現するのだろうか。現場に立てられている工事の説明板によれば、完成は十二月となっている。となると、旬日中くらいには全体像が姿を現すはずである。きっと「船のように」堂々と、ある日忽然という感じで……。俳誌「くったく」(50号記念句集・2005)所載。(清水哲男)


December 15122005

 降る雪や玉のごとくにランプ拭く

                           飯田蛇笏

語は「雪」。表では、しんしんと雪が降りつづいている。暗くならないうちにと、作者がランプの火屋(ほや)を掃除している図だ。火屋の形状も物理的には一種の「玉」ではあるが、句の「玉」は夜中に光り輝く珠玉のようなものとして詠まれている。息を吹きかけながら、キュッキュッとていねいに拭いている。深い雪に閉じ込められる身にとっては、夜の灯りはなによりの慰めだから、ていねいさにも身が入るのだ。押し寄せる白魔にはあらがう術もないけれど、このときに最後の希望のように火屋を扱っている作者の自然な感情は美しい。子供のころ、我が家もランプ生活だったので、この感情のいくばくかは理解できる。私は火屋の掃除係みたいなものだったので、やはり「玉のごとくに」拭いていた。ただ、作者の拭いた時代は戦前のようだから、「玉」もしっかりしていただろう。句全体から、なんとなくそれが感じられる。ひるがえって私の時代は敗戦直後という悪条件があり、火屋のガラスはみな粗悪品だった。なにかの拍子に、すぐに割れてしまった。これが、実に怖かった。我が家には火屋を買い置きしておく経済的な余裕がなかったので、割れたとなると、一里の雪の道を歩いて村に一軒のよろず屋まで買いにいかねばならない。慎重に拭いてはいたのだが、それでも割れることは何度もあった。親には叱られ,暗くなりかけた雪道に出て行くあの哀しさは忘れられない。生活のための「玉」の貴重さを、掲句から久しぶりに思い出されたのだった。私の暮らしていた山陰地方は,今日も雪の予報である。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 14122005

 馬売りて墓地抜けし夜の鎌鼬

                           千保霞舟

語は「鎌鼬(かまいたち)」で冬。むろん私には経験はないが、昔からよく聞いてきた。不思議なことがあるものだ。根元順吉の解説から引いておく。「突然、皮膚が裂けて鋭利な鎌で切ったような切り傷ができる現象。昔は目に見えないイタチのしわざと考えられていたところから、このようにいわれたというが、他方、風神が太刀(たち)を構える『構太刀』から由来したという説もある。この発生は地域性があるらしく、越後(えちご)(新潟県)では七不思議の一つに数えられている。/語源はともかくとして、現在もこのような損傷を受ける人がいるので、この現象は否定できない」。要するに、何かのはずみで空気中に真空状態ができ、そこに皮膚が触れると切れてしまうらしいのだ。当然ながら、昔の人はこれを妖怪変化の仕業と考えた。掲句は道具立てが揃いすぎている感もあるが、「鎌鼬」にやられても仕方がない状況ではある。なにせ藁の上から育て上げた愛馬を他人に売り渡し、後ろめたくも寂しい思いで通りかかったのが夜の墓地とくれば、何か出てこないほうがおかしい。……と、びくついているところに、急に臑のあたりに痛みが走ったのだろう。「わっ、出たっ」というわけだ。実際に怪我をしたのかどうかはわからないけれど、咄嗟に「鎌鼬」だと(信じてしまったと)詠んだところに、この句の可笑しいような気の毒なような味がよく出ている。池内たけしに「三人の一人こけたり鎌鼬」があるが、こちらはまったくの冗談口だろう。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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