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2005ソスN12ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 22122005

 日は午後に冬至の空のさゝ濁り

                           石塚友二

日は「冬至」。太陽が最も北半球から遠ざかる日で、一年中でいちばん日が短い。昔から「冬至冬なか冬はじめ」と言い習わされ、この日から冬の寒さがはじまると言われてきたが、今年はもう真冬が来てしまっている。掲句の「空」は、この時期に晴れることの多い東京あたりのそれだろう。今日も良く晴れてはいるが、午後になってきて見上げると、少し曇ってきたような……と言うのである。「さゝ濁り」は一般的には「小濁」と漢字表記し、川の水などがちょっと濁っている様子を指す。この句の場合には、「さゝ」は「小」よりも「些些」と当てるほうがぴったり来るかもしれない。「さゝ濁り」と見えるのは、むろん冬至を意識しているからだ。間もなく太陽が沈んでしまう今日の青空に、かすかに雪空めいた濁りを感じたという繊細な描写が生きている。はじめ読んだときには万太郎の句かなと思ったほどに、繊細さに加えてどこか江戸前風な粋の味わいもある。それはそれとして、冬至の時期は多くの人が多忙だから、なかなかこうした気分にはなれないのが普通だろう。それどころか、今日が冬至であることにすら気がつかない年もあったりする。私などは何日かして、あっ過ぎちゃったと気づくことのほうが多かったと思う。幸いと言おうか何と言おうか、今年の仕事は一昨日ですべて終わったので、今年の今日こそはゆったりと「さゝ濁り」を眺められそうである。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 21122005

 熱燗やきよしこの夜の仏教徒

                           小倉耕之助

語は「熱燗(あつかん)」で冬。なんとも皮肉の効いた句だ。聖夜、ワインだシャンパンだと、多くの日本人が西洋風な飲み物を楽しんでいるであろうときに、ひとり「てやんでえ」とばかり「熱燗」をやっている。まあ、この人が本物の仏教徒かどうかは知らないが、形としては日本人の大半が仏教徒だから、真正面から考えると、いまのように多くの人がクリスマスを祝うのは筋が通らない。私が子供だった頃には、こんなにクリスマスが盛んになるとは夢にも思えなかった。翌朝の新聞には、銀座のキャバレーあたりで騒いでいる男たちの写真が載っていたほどだから、どんな形にせよ,聖夜を祝うこと自体が珍しかったわけだ。それなのに、いつしか現在のような活況を呈するにいたり、日本人は器用と言えば器用、無神経と言えば無神経だと、世界中から好奇の目を向けられることになってしまった。十年ほど前になるか、あるアメリカ人に「メリー・クリスマス」と気を利かしたつもりで挨拶したら、「あ、僕はクリスチャンじゃありませんから」と返事されたことがある。知らなかったのだけれど、彼はユダヤ系だった。そのときに赤面しながら切実に感じたのは、まぎれもなく私はクリスマスに浮かれる日本人の一人なのであり、そんな軽いノリで生きているのであるということだった。とは言うものの、ここまで高まってきた日本のクリスマス上澄み掬いの風潮は、なかなか静まることはないだろう。せめて句の人のように熱燗で「てやんでえ」くらい気取ってみたいものだが、日本酒が苦手ときては、それもままならない。なんだかなあ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)


December 20122005

 まいにちが初めての年暮れにけり

                           千葉皓史

語は「年暮る」、「年の暮」に分類。毎年訪れてくる年の暮れだが、しかし、ここに至る「まいにち」はいつも「初めて」であった。と、なんでもない普通のことを普通に詠んだだけのように写るかもしれないが、なかなかどうして、面白い発想である。詠まれている時期は年の暮れなのだが、この句には歳末の感慨だけではなく、来るべき新年に向けての期待感や抱負が含み込まれているからだ。むしろ、後者の要素が大きいくらいかもしれない。年の暮れにあたっての反省として、毎日が新しい日々だったわけだが、それらの日々を常に新鮮な気持ちで生きてきたろうかということがある。そう反省してみると、「まいにちが初めて」という意識をいつも持っていたわけではなかった。だから、来年こそは、この誰にでも当たり前のことをきちんと意識して生きていこうと、作者の心はもう半ば以上は新年に飛んでいる。したがって掲句は、年末の句でありながら新年の句だとも素直に読めてしまう。考えてみれば、年の瀬の意識のなかには、誰でも新しい年へのそれが滲んでいるはずである。正月の句に「まいにちが初めて」といった表現はよく見かけるけれど、それを年の暮れに言ったところがとても珍しい。さて今年も旬日で暮れていきますが、個人的にも社会的にも、どうも新しい年にはあまり期待できそうもない気がしてなりません。せめて「まいにちが初めて」の意識だけは持ちつづけたいものと思っております。「2006・俳句研究年鑑」所載。(清水哲男)




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