「お嬢ちゃん、サンタは本当にいるんですよ」と社説に書いた昔の新聞。今日の社説は?




2005ソスN12ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 25122005

 折鶴は紙に戻りて眠りけり

                           高橋修宏

季句。しかし、何となくこの季節にふさわしいような気がする。「折鶴」のかたちに折られていた折り紙が、その形を解かれて「紙」に戻り、いま静かに眠っていると言うのである。この繊細なセンスは素晴らしい。ただの四角い一枚の紙が、鶴に折られると、もうただの紙ではない。形が与えられるばかりではなく、その形には折り手の願いや祈りも込められる。千羽鶴のためならなおさらだが、そうではなくとも、少なくとも鶴らしくあってほしいと願われるとき、折鶴にはそのようであらねばならぬという役割が生ずるわけだ。したがって、鶴の形をしている間は、寝ても覚めてもただの紙であることは許されず、常に鶴でありつづけなければならない。そこにはもとより、一枚の紙から鶴になった喜びもあるだろうが、その喜びと背中合わせのように、やはり役割を演じつづけるための緊張感がつきまとう。疲れるだろうなと、思う。そしてこのことは、私たち人間が役割を持つときとよく似ているなとも、思う。いや、逆か。社会的に役割を持つ人間が見るからこそ、折鶴のさぞやのプレッシャーを察するというのが順序だろう。ともあれ、そんな折鶴もいまは形を解かれ、残っている折り線がわずかに鶴であったことを示すのみで、羨ましいくらいに安らかに眠っている。これが、死というものだろうか。露骨ではないにしても、たぶん掲句は小さな声でそう問いかけているのである。『夷狄』(2005)所収。(清水哲男)


December 24122005

 炬燵に賀状書くや寝たる父の座に

                           橋本風車

語は「賀状書く」で冬。この三連休を利用して、賀状を書いている方も多いだろう。作者は先に寝てしまった「父の座」で書いている。おそらくそれまでは、父親がそこで賀状を書いていたのだと思う。昔は筆で書くのが普通だったから、父の座には筆も硯も墨もそのまま置かれていたので、拝借して書くことにしたのだ。硯などを自分の座に一つ一つ移動させるよりも、こちらがそこに移動したほうが手っ取り早い。そんな軽い気持ちで父の座に坐ってみたところが、なんとなく家長になったような、厳粛な気持ちになったのである。その座で筆を持ち賀状を書いていると、特別にあらたまった感じになり、おのずから文面も引き締まったものになったに違いない。この感じは、わかります。会社でふざけて部長の椅子に坐ってみたりしたときの、ああいう感じに通じるものがあって、思い当たる読者もおられるでしょう。賀状を筆で書くといえば、私も小学生時代にはじめて書いたときがそうだった。きっかけは私くらいの年代の者はみな同じで、お年玉つきの年賀はがきが発行された(1949年)ことによる。先生の指導を受け、なにやら難しい文章を筆で書いたときには、一挙に大人の仲間入りをした気分であった。このことについては「俳句」(2006年1月号)ではじまった池田澄子の連載「あさがや草紙」で詳しく触れられているので、ぜひお読みいただきたい。昨今の俳句誌のエッセイのなかでは際立った達意の文章で、「俳句」は久しぶりに次号の待ち遠しい雑誌となりそうである。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


December 23122005

 数へ日の交番に泣く女かな

                           菅野忠夫

語は「数へ日(かぞえび)」で冬。「♪もういくつ寝るとお正月」と、年内も押しつまって、指で数えられるほどになったころのこと。年内もあと八日、今日あたりから使える季語だ。さて、掲句。「交番」のイメージは各人各様ではあろうが、あまりお世話にはなりたくないところだ。そんな意識があるからか、交番の前を通りかかると、なんとなく中を見てしまう。とくに警察官以外の人のいる気配がするときには、立ち止まって眺めるほどではないにしても、少し注意して観察する目になる。何だろうか、何かあったのかと、野次馬根性も大いに働く。たいていは誰かが道を尋ねていたりするくらいのものだが、ときには句のような情景を見かけることもある。それこそ、何があったのか。「女」がひとり、明らかに泣いている。雑踏のなかで大切なお金をそっくりすられでもしたのか、あるいは何か揉め事を訴えてでもいるのだろうか。むろん作者は、泣く女を瞥見して通り過ぎただけだから、想像だけは膨らんでも事実はわからない。わからないので、余計に気になる。この「数へ日」の忙しいときに、交番で泣くとは余程のことがあったにちがいない。あの人には、明るいお正月もないだろうな、気の毒に。等々、家に戻っても、ふっと泣いている情景を思い出す。年の瀬ならではの人情もからんだ、ちょっと短編小説のような味のする句だ。『航標・季語別俳句集』(2005)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます