今日あたりマンションの玄関に門松が立つ。それにしても、近年は民家の門松が減った。




2005ソスN12ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 26122005

 煤逃げの碁会のあとの行方かな

                           鷹羽狩行

語は「煤逃げ(すすにげ)」で冬、「煤払(すすはらい)」に分類。現代風に言うならば、大掃除のあいだ足手まといになる子供や老人がどこかに一時退避すること。表に出られない病人は、自宅の別室で「煤籠(すすごもり)」というわけだ。掲句は軽い調子だが、さもありなんの風情があって楽しめる。大掃除が終わるまで「碁会」(所)にでも行ってくると出ていったまま、暗くなってもいっかな帰ってこない。いったい、どこに行ってしまったのか、仕様がないなあというほどの意味だ。この人には、普段からよくこういうことがあるのだろう。だから、戻ってこなくても、家族は誰も心配していない。「行方」の見当も、だいたいついている。そのうちに、しれっとした顔で帰ってくるさと、すっかりきれいになった部屋のなかで、みんなが苦笑している。歳末らしいちょっとした微苦笑譚というところだ。戦後の厨房や暖房環境の激変により、もはや本物の煤払いが必要なお宅は少ないだろうが、私が子供だったころの農村では当たり前の風習だった。なにしろ家の中心に囲炉裏が切ってあるのだから、天井の隅に至るまでが煤だらけ。これを一挙に払ってしまおうとなれば、無防備ではとても室内にはいられない。払う大人は手拭いでがっちりと顔を覆い、目だけをぎょろぎょろさせていた。そんなときに、子供なんぞは文字通りの足手まといでしかなく、大掃除の日には早朝から寒空の下に追い出されたものだった。寒さも寒し、早く終わらないかなあと、何度も家を覗きに戻った記憶がある。俳誌「狩」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


December 25122005

 折鶴は紙に戻りて眠りけり

                           高橋修宏

季句。しかし、何となくこの季節にふさわしいような気がする。「折鶴」のかたちに折られていた折り紙が、その形を解かれて「紙」に戻り、いま静かに眠っていると言うのである。この繊細なセンスは素晴らしい。ただの四角い一枚の紙が、鶴に折られると、もうただの紙ではない。形が与えられるばかりではなく、その形には折り手の願いや祈りも込められる。千羽鶴のためならなおさらだが、そうではなくとも、少なくとも鶴らしくあってほしいと願われるとき、折鶴にはそのようであらねばならぬという役割が生ずるわけだ。したがって、鶴の形をしている間は、寝ても覚めてもただの紙であることは許されず、常に鶴でありつづけなければならない。そこにはもとより、一枚の紙から鶴になった喜びもあるだろうが、その喜びと背中合わせのように、やはり役割を演じつづけるための緊張感がつきまとう。疲れるだろうなと、思う。そしてこのことは、私たち人間が役割を持つときとよく似ているなとも、思う。いや、逆か。社会的に役割を持つ人間が見るからこそ、折鶴のさぞやのプレッシャーを察するというのが順序だろう。ともあれ、そんな折鶴もいまは形を解かれ、残っている折り線がわずかに鶴であったことを示すのみで、羨ましいくらいに安らかに眠っている。これが、死というものだろうか。露骨ではないにしても、たぶん掲句は小さな声でそう問いかけているのである。『夷狄』(2005)所収。(清水哲男)


December 24122005

 炬燵に賀状書くや寝たる父の座に

                           橋本風車

語は「賀状書く」で冬。この三連休を利用して、賀状を書いている方も多いだろう。作者は先に寝てしまった「父の座」で書いている。おそらくそれまでは、父親がそこで賀状を書いていたのだと思う。昔は筆で書くのが普通だったから、父の座には筆も硯も墨もそのまま置かれていたので、拝借して書くことにしたのだ。硯などを自分の座に一つ一つ移動させるよりも、こちらがそこに移動したほうが手っ取り早い。そんな軽い気持ちで父の座に坐ってみたところが、なんとなく家長になったような、厳粛な気持ちになったのである。その座で筆を持ち賀状を書いていると、特別にあらたまった感じになり、おのずから文面も引き締まったものになったに違いない。この感じは、わかります。会社でふざけて部長の椅子に坐ってみたりしたときの、ああいう感じに通じるものがあって、思い当たる読者もおられるでしょう。賀状を筆で書くといえば、私も小学生時代にはじめて書いたときがそうだった。きっかけは私くらいの年代の者はみな同じで、お年玉つきの年賀はがきが発行された(1949年)ことによる。先生の指導を受け、なにやら難しい文章を筆で書いたときには、一挙に大人の仲間入りをした気分であった。このことについては「俳句」(2006年1月号)ではじまった池田澄子の連載「あさがや草紙」で詳しく触れられているので、ぜひお読みいただきたい。昨今の俳句誌のエッセイのなかでは際立った達意の文章で、「俳句」は久しぶりに次号の待ち遠しい雑誌となりそうである。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)




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