「今年はひどい年だった」。英女王が恒例のクリスマス演説。小泉サンも演説しなさい。




2005ソスN12ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 27122005

 慈善鍋士官襟章ほのももいろ

                           山口青邨

語は「慈善鍋(社会鍋)」で冬。救世軍が歳末に行う募金活動で、東京あたりではこの季節の風物詩と言ってもよいだろう。ラッパを吹いたり賛美歌をうたったりして、道行く人に呼びかけている。でも、私は一度も応じたことがない。句にあるような軍装に、どうしても引っかかるからだ。作者のように彼らをよく見たことはないのもそのせいだが、なるほど襟章は「ほのももいろ」なのか、つまり本物の軍隊のそれに比べれば平和的な彩色というわけである。救世軍は,1865年にイギリスのメソジスト派の牧師ウイリアム・ブース等がはじめた。調べてみると、彼らの軍装は軍隊の効率的かつ機動的な部分を布教などの組織的活動に取り入れたことによるもののようだ。決して好戦的な団体ではないのであるのはわかるが、しかし、何もファッションにまで軍隊調を取り入れる必要はなかったのではあるまいか。それとも、何か事があれば軍隊の役割も果たそうというのか。教義などを知らないので、何とも言いようがない。いずれにしても、作者は近寄ってしげしげと襟章を見つめたわけだ。おそらくは、本物の軍隊のそれとの違いを確認したかったのだろう。で、「ほのももいろ」に安堵して、鍋にいくばくかのお金を投じたのだろう。戦前の句なのか戦後の句なのかは知らないが、私のような軍装アレルギーのない人には、微笑して読み流せる句ということにはなりそうだ。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 26122005

 煤逃げの碁会のあとの行方かな

                           鷹羽狩行

語は「煤逃げ(すすにげ)」で冬、「煤払(すすはらい)」に分類。現代風に言うならば、大掃除のあいだ足手まといになる子供や老人がどこかに一時退避すること。表に出られない病人は、自宅の別室で「煤籠(すすごもり)」というわけだ。掲句は軽い調子だが、さもありなんの風情があって楽しめる。大掃除が終わるまで「碁会」(所)にでも行ってくると出ていったまま、暗くなってもいっかな帰ってこない。いったい、どこに行ってしまったのか、仕様がないなあというほどの意味だ。この人には、普段からよくこういうことがあるのだろう。だから、戻ってこなくても、家族は誰も心配していない。「行方」の見当も、だいたいついている。そのうちに、しれっとした顔で帰ってくるさと、すっかりきれいになった部屋のなかで、みんなが苦笑している。歳末らしいちょっとした微苦笑譚というところだ。戦後の厨房や暖房環境の激変により、もはや本物の煤払いが必要なお宅は少ないだろうが、私が子供だったころの農村では当たり前の風習だった。なにしろ家の中心に囲炉裏が切ってあるのだから、天井の隅に至るまでが煤だらけ。これを一挙に払ってしまおうとなれば、無防備ではとても室内にはいられない。払う大人は手拭いでがっちりと顔を覆い、目だけをぎょろぎょろさせていた。そんなときに、子供なんぞは文字通りの足手まといでしかなく、大掃除の日には早朝から寒空の下に追い出されたものだった。寒さも寒し、早く終わらないかなあと、何度も家を覗きに戻った記憶がある。俳誌「狩」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


December 25122005

 折鶴は紙に戻りて眠りけり

                           高橋修宏

季句。しかし、何となくこの季節にふさわしいような気がする。「折鶴」のかたちに折られていた折り紙が、その形を解かれて「紙」に戻り、いま静かに眠っていると言うのである。この繊細なセンスは素晴らしい。ただの四角い一枚の紙が、鶴に折られると、もうただの紙ではない。形が与えられるばかりではなく、その形には折り手の願いや祈りも込められる。千羽鶴のためならなおさらだが、そうではなくとも、少なくとも鶴らしくあってほしいと願われるとき、折鶴にはそのようであらねばならぬという役割が生ずるわけだ。したがって、鶴の形をしている間は、寝ても覚めてもただの紙であることは許されず、常に鶴でありつづけなければならない。そこにはもとより、一枚の紙から鶴になった喜びもあるだろうが、その喜びと背中合わせのように、やはり役割を演じつづけるための緊張感がつきまとう。疲れるだろうなと、思う。そしてこのことは、私たち人間が役割を持つときとよく似ているなとも、思う。いや、逆か。社会的に役割を持つ人間が見るからこそ、折鶴のさぞやのプレッシャーを察するというのが順序だろう。ともあれ、そんな折鶴もいまは形を解かれ、残っている折り線がわずかに鶴であったことを示すのみで、羨ましいくらいに安らかに眠っている。これが、死というものだろうか。露骨ではないにしても、たぶん掲句は小さな声でそう問いかけているのである。『夷狄』(2005)所収。(清水哲男)




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