大雪のなかでのお正月という方も多いでしょうね。初春よりも本格的な春が待たれます。




2006ソスN1ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0112006

 塗椀のぬくみを置けり加賀雑煮

                           井上 雪

語は「雑煮」で新年。この句、なんといっても品格がよろしい。雑煮の大きな「塗椀(ぬりわん)」を置いたわけだが、それを「ぬくみ」を置くと婉曲に、しかし粋に表現しているところ。そして「加賀雑煮」と締めた座りの良さ。句の座りももちろんだが、雑煮の椀もまた見事に安定している。ゆったりとした正月気分と同時に、質素な加賀雑煮に新年の引き締まる思いが共存している句だ。一般に加賀料理というと豪勢な感じを受けるが、加賀雑煮だけはすまし仕立てで、具は刻み葱と花鰹のみのシンプルなものだという。加賀百万石の権勢下で、武家も庶民も正月の浮かれ気分を自らいましめるための知恵の所産だろう。このように、雑煮は地方によっても違うし、その家ごとの流儀もある。我が家のように、関東風と関西風との両方を作ったりする家庭もけっこうあるのではなかろうか。子供の頃から慣れ親しんだ雑煮でないと、なんだか正月が来た気分がしないからだ。考えてみれば、雑煮は大衆化していない唯一の料理だ。たいていの料理はレストランや食堂が大衆化に成功してきたが、雑煮だけはそれぞれの家庭で食べるのが本流だから、どんなに美味しいものでも、簡単には表に出て行かないのである。すなわち、雑煮だけは味的鎖国状態のまま、それぞれの味がそれぞれの家庭で継承されてきたというわけだ。さて、新しい年になりました。お雑煮をいただきながら、年頭の所感を。……ってのは真っ赤な嘘でして、例年のようにぼんやりと過ごす時間を楽しむことにいたします。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 31122005

 除夜の鐘天から荒縄一本

                           八木忠栄

語は「除夜の鐘」。今年は、この力強い句で締めくくろう。余白師走句会(2005年12月17日)に出句された作品だ。除夜の鐘が鳴りはじめた。人はこのときに、それぞれの思いのなかで「天」を振り仰ぐ。と、天よりするすると「荒縄が一本」下りてきた。むろんイメージの世界の出来事ではあるが、大晦日の夜の感慨のなかにある人ならば、具体的に荒縄が下りてきたとしても、べつだん奇異にも思わないだろう。作者もまた、一本のこの荒縄をほとんど具象物として描き出しているように思われる。そして、そんな荒縄を見上げる人の思いは一様ではないだろう。ある人は天の啓示のようにまぶしく見つめるかもしれないし、またある人は「蜘蛛の糸」のカンダタのように手を伸ばそうとするかもしれない。年を送るその人の胸中がさまざまに反応するわけで、ミもフタもないことを言うようだが、この荒縄に対する姿勢はそのままその人の来し方を象徴することになる。で、かくいう私は、どうするだろうか。きっとポケットに手を入れたまま、茫然と眺めることになるのだろう。体調不良もあったけれど、それほどに何事につけても消極的で傍観的な一年だったような気がする。読者諸兄姉は、如何でしょうか。さきほど冒頭で一度鳴った(鳴らない方もあります、ごめんなさい)のは、知恩院の鐘の音です。ゆっくりと想像してみてください。では、一年間のご愛読に感謝しつつ、新しい年を迎えることにいたします。どうか、みなさまに佳き新年が訪れますように。(清水哲男)


December 30122005

 桜の木ひかりそめたり十二月

                           加藤喜代子

二月。人事的にはいろいろなことが終了する月だが、この句は「ひかりそめたり」と、自然界のはじまりを見ている。紅葉の早い「桜」だから、春への準備も早いのだろうか。もとより、いまは真冬だ。桜の木のなかで何が起きているのかは、表面的にはわからないだろう。しかし作者は目で見たというよりも、体感として桜の木に、何か春へのひそやかな息吹のようなものを感じたのだと思う。ものみな終りを告げているような年末に、ふっと覚えたかすかな自然の胎動。生命が生命として、そこにある確かさ、頼もしさ。それを「ひかりそめたり」とは、まことに詩情あふれる優しい物言いだ。この月の慌ただしさのなかで、こうした感受の心を保ち得ている作者には深甚の敬意を表したい。惚れぼれするような佳句だ。ところで今日十二月三十日は、作者の師事した「ゆう」主宰・田中裕明が逝って一年目の命日にあたる。あらためて、俊才の夭折が惜しまれてならない。その彼が掲句について書いているので、引用しておこう。「……この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて、俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語がひろげる世界を具体的に描き出すこと」。季語「十二月」に安易にながされていないという意味でも、私には記憶すべき一句となった。『霜天』(2005)所収。(清水哲男)




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