三角屋根の下関駅舎が焼け落ちた。構内にのんびりした食堂があったが、無事だろうか。




2006ソスN1ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0812006

 初場所のすまねば松の取れぬ町

                           石川星水女

語は「初場所」で新年。東京の松の内は、元日から七日までとするのが普通だ。対して関西などでは十四日ないしは十五日までと長い。ところが東京でも、初場所興行のある両国の町だけは別である。場所が終わるまでは「正月」だ、どんなもんだいと、無邪気に町の自慢をしている句だ。ちなみに今年は今日が初日だから、両国で松が取れるのは二十二日の夜ということになる。たしかに長い正月だ、たいしたもんだと、こういうめでたい句は褒めておくに限る。それに、相撲はいちばん正月に似合うスポーツだと思う。古式ゆかしい伝統を持っていることもあるけれど、何と言っても飲み食いをいわば前提にしたスポーツ観戦は相撲だけだからだ。束の間ながら、憂き世を忘れての殿様気分で楽しめるのが相撲なのである。ほとんど芝居見物と同じ気分で観戦でき、他のサッカーやらラグビーやらのように息をこらして見つめつづける必要もない。贔屓力士や人気力士が出てくるまでは、一杯やりながらのんびりと構えていればよいのである。こんなスポーツ観戦の仕方が、他にあるだろうか。もう少し言えば、相撲の勝敗には殺伐としたところが稀薄なのも正月的だ。もとより力士には並外れたパワーも必要だが、小さな土俵の上で決着をつけるのは、パワーにプラスされた技である。その意味でも元来相撲は演劇的なのであって、芝居見物の気分と通い合うのも、土俵と舞台の上には技を見せるという似た風が吹いているからだろう。とまれ、今場所も外国人力士の優勢は動きそうもない。べつに私は構わないが、正月気分からすると、もっと強い日本人力士の登場が待たれる昨今ではある。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


January 0712006

 限りなく降る雪何をもたらすや

                           西東三鬼

測史上、未曾有の豪雪だという。カラカラ天気の東京にあっては、新潟津南町の4メートルに近い積雪の様子などは想像を絶する。テレビが映像を送ってくるけれど、あんな画面では何もわからない。車が埋まる程度くらいまではわかるとしても、それ以上になると地上はただ真っ白なだけで、深さを示す比較物が見えないからだ。「雪との闘いですよ、他のことは何もできない」という住民の声のほうが、まだしも深刻な深さを指し示してくれる。映像も無力のときがあるというわけだ。掲句はおそらく戦後二年目の作と思われるが、「限りなく降る」というのは一種の比喩であって、とりわけて豪雪を詠んだ句ではあるまい。降り続く雪を見ながら、作者はその雪に敗戦による絶望的な状況を象徴させ、これから自分は、あるいは世の中はどうなっていくのかと暗澹とした気持ちになっているのだ。「何をもたらすや」の問いに、しかし答えは何もないだろう。問いが問いのままに、いわば茫然と突っ立っている格好だ。そしてこの句を昨今の豪雪のなかで思い出すとき、やはりこの問いは問いのままにあるしかないという実感がわいてくる。「実感」と言ったように、作句時の掲句はむしろ観念が勝っていたのとは違い、いまの大雪の状況のなかでは具体も具体、ほとんど写生句のように読み取れてしまう。といって私は、状況や時代が変われば句意も変わるなどとしたり顔をしたいわけじゃない。こういう句もまた、写生句としか言わざるを得ないときがあることに、ふと気がついたというだけの話である。『夜の桃』(1948)所収。(清水哲男)


January 0612006

 戸をさして枢の内や羽子の音

                           毛 がん

田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)より、江戸元禄期の句.季語は「羽子(つき)」で新年。作者名の「毛がん」の「がん」は、糸偏に「丸」と表記する。「枢」は「とぼそ」と読み、戸の梁(はり)と敷居とにうがった小さな穴、転じて扉や戸口のこと。追い羽根の様子を詠んだ句は数多いが、掲句は羽根つきの音だけを捉えた珍しい句だ。おそらくは、風の強い日なのだろう。町を歩いていると、とある家の中から羽子をつく音が聞こえてきたと言うのである。ただそれだけのことながら、しかしここには、戸の内にあって羽根つきをしている女の子たちの弾んだ心持ちが、よく描出されている。風が強すぎて、とても表ではつけない。でも、どうしてもついて遊びたい。そこで戸を閉めた家の中の狭い土間のようなところで、ともかくもやっとの思いでついているのに違いない。そう推測して、作者は微笑している。……と私は読んだのだが、宵曲は「風の強い日など」としながらも、夜間の羽根つきと見ているようだ。「ようだ」としか言えないのは、解説にしきりに明治以降の灯火の話が出てくるからで、しかし一方では元禄期の灯火では羽根つきは望めないとも書いており、今ひとつ文意がはっきりしない。ただ「戸をさして枢の内」を、戸をしっかりと閉めた家の中と読めば、昼間よりも夜間とするほうが正しいのかもしれない。夜間の薄暗い灯火でつく羽子の音ならばなおさらのことだが、いずれにしても正月を存分に楽しみたい女の子の心持ちが伝わってきて、好感の持てる一句である。(清水哲男)




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