一口で「320万」とは言えますが、凄い数なんですねえ。みなさまのご愛読に感謝します。




2006ソスN1ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1412006

 着ぶくれて避難所を這ふ双子かな

                           白石多重子

語は「着ぶくれ」で冬。句集では、この句の前に「阪神淡路大地震千織一家被災」と前書きされた「第一報うけ寒卵とり落とす」がある。1995年(平成七年)一月の大地震のあとで、東京在住の作者が身内が身を寄せている避難所を見舞ったときの句だ。見舞った先は、名前から推して娘さん一家だろう。いくら命に別状はなく無事に避難しているからと聞いてはいても、そこは親心、一家の顔を見るまでは心配でたまらない。とるものもとりあえず出かけていくと、避難所で掲句のような光景に出くわした。同じような顔をした双子の赤ちゃんが、同じようにモコモコと着ぶくれて、元気に床を這い回っていたのだった。これが避難所でなければ、少しく滑稽な図とも見えるところだが、状況が状況だけに、作者は微笑すると同時に涙ぐんでしまったのではあるまいか。地震発生から避難所にたどりつくまでの大人たちのどんな話よりも、こうしてまるで何事もなかったかのようにふるまっている赤ちゃんの姿のほうに、作者ならずとも、人は安堵し癒されるものなのだろう。無垢の者は状況を理解しないがゆえに、何らの理屈も引きずっていないからだ。安堵や癒しに、理屈は不要なのである。最近の例では、病院から誘拐されて救出されたときの新生児の姿がそうだった。報道によれば、発見されたときの赤ちゃんは「きょろきょろ周囲を見回していた」という。見知らぬ赤ちゃんの「きょろきょろ」にすら、私たちはほっとさせられるのだ。ましてや身内ともなれば、作者はどれほどモコモコと這い回る双子の姿に感動したことか。個人的な体験を越えて、句は無垢の力を伝えることに成功している。『釉』(2005)所収。(清水哲男)


January 1312006

 襖絵の虎の動きや冬の寺

                           斎藤洋子

の句を矢島渚男が「単純な形がいい」と評していて、私も同感だ。がらんとした「冬の寺」。想像しただけで寒そうだが、ものみな寒さの内に固く沈むなかで、ふと目にとめた襖絵の虎だけには動きがあって、生気にみなぎっていると言うのである。この生気が、いやが上にも周辺の寒くて冷たい事物を際立たせ、ひいては寺ぜんたいの静けさを浮き上がらせているのだ。襖絵の虎といえば、誰もが知っている一休和尚のエピソードがある。彼がまだ子供で周建という名前だったころ、その知恵者ぶりを足利義満に試される話だ。義満が聞いた。「周建よ、そこの屏風の絵の虎が毎晩抜け出して往生しているのだ。その虎を縛ってはくれないか」。「よろしゅうございます」と縄を持った周建が、平気な顔で「これから虎を捕まえます。ついては、どなたか裏に回って虎を追い出していただきたい」と叫んだという話である。少年時代にこの話を何かの雑誌で読んだときに、文章の傍らに虎を描いた立派な襖のイラストレーションがそえられていた。何の変哲もない挿絵だったけれど、それまで襖絵というと模様化された浪と千鳥の絵くらいしか知らなかった私には、衝撃的であった。こんな絵が自分の家の襖に描いてあれば、どんなに楽しいだろうか。虎の絵が寺や城の襖につきものとは露知らず、一般家庭の襖にも描かれていると思ってしまったわけだ。以来、襖の虎は我が憧れの対象になっていて、いまだにそんな絵があるとしみじみと見入ってしまう。掲句が目に飛び込んできたのも、そのことと無縁ではないのであった。俳誌「梟」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 1212006

 煮凝や晝をかねたる朝の飯

                           松尾いはほ

語は「煮凝(にこごり)」で冬。煮魚を煮汁とともに寒夜おいておくと、魚も汁もこごりかたまる。これが煮凝りである。料理屋などでは、わざわざ方型の容器で作って出したりするけれど、掲句の煮凝りは昨夜のおかずの煮魚が自然にこごってできたものだろう。昔の室内、とりわけて台所は寒かったので、自然にできる煮凝りは珍しくはなかった。作者は京都の人だったから、これは底冷え製である。句は、あわただしい一日のはじまりの情景だ。急ぎの用事で、これからどこかに出かけていくところか。たぶん、昼食はとれないだろうから、朝昼兼用の食事だと腹をくくって食べている。それすらもゆっくり準備して食べる時間はないので、食べているのは昨夜の残り物だ。ご飯ももちろん冷たいままなので、これまた冷たい煮凝りといっしょでは侘しいかぎり。おかずが煮凝りだったわけではないが、これと似たような食事体験は、私にも何度かあった。思い出してみると、我が家は夕食時にご飯を炊いていたので、朝飯はいつも冷たくて、あわただしい食事ではなくても侘しい感じがしたものだ。冷たいご飯に熱い味噌汁をぶっかけて食べたり、あるいはお茶漬けにしたりと、冷たいご飯をそのままで食べるのは苦手であった。だから余計に掲句を侘しいと思ってしまうのかもしれないが、句のような煮凝りの味は現在、もはや死語ならぬ「死味」になってしまったと言ってもよいのではなかろうか。往時茫々である。『合本俳句歳時記・第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます