イランの核保有阻止のため軍事攻撃もと、米与野党の有力議員が主張。やりかねないぞ。




2006ソスN1ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1712006

 冬山に僧も狩られし博奕かな

                           飯田蛇笏

語は「冬(の)山」。大正初期の作である。「博奕(ばくち)」は、おそらく花札賭博だ。農閑期、冬閑期の手なぐさみとでもいおうか、他に娯楽とてない寒村で博奕が流行したのはうなずける。違法行為ではあるけれど、多くの村人が関わっていることはいわば公然の秘密なのであり、当然警察も知っているのだが、たいていは見て見ぬふりをしていたのだろう。警察といえどもが村落共同体の一員だから、何事にも杓子定規だけでは事は巧く運ばない。それでも面子や威信もあるので、たまにはと山寺を急襲して取り締まった結果が、僧侶の逮捕ということになった。むろん僧侶の逮捕はあらかじめ意図されたものであり、情報宣伝価値の高さをねらったもので、これはいつの世にも変わらぬ警察の常套的な戦略である。作者はこの情報を聞いて作句したわけだが、この句の言わんとするところのものは、僧侶のスキャンダルを嘆いているのでもなければ博奕の流行を慨嘆しているのでもない。私の読後に残ったのは「僧」でもなければ「博奕」でもなく、ただ上五の「冬山に」の「冬山」だけだった。中七下五のどたばた劇も、終わってみればみな、荒涼たる冬の山に吸収されてしまったがごとくではないか。このときに「博奕かな」の「かな」には、結局は冬山に吸収されてしまう卑小な人間行為へのあきらめの気持ちが込められている。下世話に言えば「やれやれ」というところか。『山廬集』(1932)所収。(清水哲男)


January 1612006

 寒柝や街に子供の声残る

                           両角武郎

語は「寒柝(かんたく)」で冬、「火の番」に分類。火事の多い冬季には火の用心のために夜回りをするが、その際の拍子木の音が「寒柝」だ。我が家の近辺でも引っ越してきた当座(もうかれこれ四半世紀前になる)の何年間かは、夜遅くに寒柝が聞こえてきたものだが、いつの間にか聞こえなくなってしまった。古くからの住民で作っている町内会の人々の高齢化によるものなのか、あるいはもはや夜回りは時代遅れという判断からなのか、いざ聞こえなくなってみるとなんとなく物足りなくて寂しい気がする。掲句は現代の句。作者は東京郊外の東村山市在住とあるから、私の住む三鷹市とはそんなに遠くない東村山では、寒柝は健在というわけだ。その寒柝がひとしきり鳴って通ったあと、街に「子供の声」が残ったと言うのである。実況なのだろうが、たとえば犬の声ならよくありそうだけれども、夜遅い時間の表での子供の声とは印象的だ。「残る」とあるので、寒柝といっしょにも聞こえていたに違いない。おそらくは「火の用心」と、子供も真似をして声を出していたのである。それが寒柝が去ったあとでも、まだ屈託なく「火の用心」とやっている。それにしても、こんな寒い夜中に、あの子(ら)は何故外にいるのだろうか。傍に、ちゃんと大人がついているのだろうか。そんな不安もちらりと頭をかすめて、作者はまた耳をこらしたことだろう。子供と夜。いささか不気味な取り合わせである。「東京新聞・武蔵野版」(2006年1月15日付朝刊)所載。(清水哲男)


January 1512006

 ペチカ燃ゆタイプライター鳴りやまず

                           伊藤香洋

語は「ペチカ」で冬、「ストーブ」に分類。厳寒の地に生まれたロシア風の暖房装置のこと。本体は煉瓦や粘土などで作られており、接続して据え付けられた円筒に通う熱気の余熱で室内を暖める仕掛けだ。句はオフイスの情景だが、新聞社だろうか、あるいは商社かもしれない。ほどよい暖かさのなかで、タイプライターを打つ音がなりやまず、いかにも活気のみなぎった職場風景だ。みんなが、ペチカの暖かさに上機嫌なのである。……と解釈はしてみたものの、私にペチカ体験はない。実は、見たこともない。読者諸兄姉にも、そういう方のほうが圧倒的に多いのではなかろうか。しかし、見たことがなくても、誰もが「ペチカ」を知っている。だいたい、どんなものかの想像もつく。何故なのか。それはおそらく、北原白秋の童謡「ペチカ」のおかげなのだと思う。「♪雪の降る夜は たのしいペチカ/ペチカ燃えろよ お話しましょ……」。この詩情に惹かれて、私たちは実際には知らないペチカを、いつしか知っているように思ってきたのである。そういうふうに考えると、詩の力には凄いものがある。実際のペチカは明治期にロシアから北海道に入ってきたという記録もあるが、高価なために普及はしなかったようだ。そんなわけで、多くの日本人が実際に体験したのは満州においてであった。白秋のこの歌も、満州での見聞が下敷きになっている。独立した俳句の季語になったのも、たぶんこの時期だろう。言うならば中国大陸進出の国策が産み落とした珍しい季語というわけで、さすがに近年の歳時記からは姿を消しつつある。掲句の舞台もまた、国内ではなく満州だったのかもしれない。『俳句歳時記・冬の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)




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