栃東優勝。初場所は面白かった。テレビは見ず全部ラジオ。アナウンサーがみな上手い。




2006ソスN1ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2312006

 風花やライスに添へてカキフライ

                           遠藤梧逸

語は「風花(かざはな)」で冬。良く晴れた空から雪片が、ちらつきながら舞い降りてくることがある。遠くで降っている雪が風に吹き送られてくる現象で、まことに美しい。これが風花。掲句はそんな風花が舞うなかで、作者がこれから食事をしようとしているところだ。レストランというよりも、食堂と言ったほうが似合いそうな店でのことだろう。「ライスに添へて」と、わざわざ「ライス」を立ててあるところからして、楽しみのための食事ではなく、空腹を満たすための日常的な食事という感じが強いからだ。言うなれば「カキフライ定食」を注文したのかな。とはいえ、カキフライをおかずにするということは、いつもの定食のレベルよりは、ちょっと張り込んだ食事であるに違いない。何か良いことでもあったのか、作者は上機嫌だ。暖かい食堂の窓から見やると、青い空に風花はますます美しく舞っており、作者はささやな幸福感に、束の間ながらも浸ることになるのだった。おだやかで明るい句だけれど、しかし一抹の哀感も漂っている。ささやかな幸福感とは、まこと風花のように、移ろいやすく消えやすいものだからだ。それにしても、風花とは巧みなネーミングだ。むろん外国にも同じ気象現象はあるだろうが、これほどに美しい呼び名はないのではあるまいか。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 2212006

 湯ざめとは松尾和子の歌のやう

                           今井杏太郎

語は「湯ざめ」で冬。はっはっは、こりゃいいや。たしかに、おっしやるとおりです。ちょっと他の歌手でも考えてみたけれど、思い当たらなかった。やはり「松尾和子」が最適だ。句は即興かもしれないが、こういうことは日頃から思ってないと、咄嗟には出てこないものだ。作者は松尾和子全盛期のころから、既に「湯ざめ」を感じていたにちがいない。ムード歌謡と言われた。フランク永井とのデュエット「東京ナイトクラブ」や和田弘とマヒナスターズとの「誰よりも君を愛す」あたりが、代表作だろう。「お座敷小唄」を加えてもいいかな。口先で歌うというのではないが、歌詞内容にさほど思い入れを込めずに歌うのが特長だった。歌詞がどうであれ、行き着く先は甘美で生活臭のない愛の世界と決め込んで、そこに向けて予定調和的に歌い進めるのだから、歌詞との間に妙な感覚的ギャップが生まれてくる。そこがムーディなのであり魅力的なのだが、しかし、このギャップにこだわれば、どこまでいっても中途半端で落ち着かない世界が残されてしまう。まさに「湯ざめ」と同じことで、聴く側の熱が上昇しないままに歌が終わってしまうのだから、なんとなく風邪気味のような心持ちになったりするわけだ。松尾和子が57歳の若さで亡くなったのは1992年、自宅の階段からの転落が、数時間後に死を招いた。その二年ほど前、一度だけ新宿のクラブでステージを見たことがある。「俳句研究」(2006年2月号)所載。(清水哲男)


January 2112006

 狼も詠ひし人もはるかなり

                           すずきみのる

語は「狼」で冬。「山犬」とも言われた日本狼(厳密に言えば狼の亜種)は、1905年(明治三十八年)に奈良の鷲家口で捕獲されたのを最後に絶滅したとみられている。したがって、ここ百年ほどに詠まれた狼句は、すべて空想の産物だ。といって、それ以前に人と狼とが頻繁に出会っていたというわけではなく、たとえば子規の「狼のちらと見えけり雪の山」などは、いかにも嘘っぽい。実景だとすれば、もっと迫力ある句になったはずだ。そこへいくと、江戸期の内藤丈草「狼の声そろふなり雪のくれ」の迫真性はどうだろう。掲句はそんな狼だけを主眼にするのではなく、狼を好んで「詠(うた)ひし人」のほうにも思いを寄せているところが新しい。で、この「詠ひし人」とは誰だろうか。むろん子規でも丈草でも構わないわけだが、私には十中八九、「絶滅のかの狼を連れ歩く」と詠んだ三橋敏雄ではないかという気がする。絶滅した狼を連れ歩く俳人の姿は、この世にあっても颯爽としていたが、鬼籍に入ったあとではよりリアリティが増して、どこか凄みさえ感じられるようになった。三橋敏雄が亡くなったのは2001年だから、常識的には「はるかなり」とは言えない。しかし、逆に子規などの存在を「はるかなり」と言ったのでは、当たり前に過ぎて面白くない。すなわち、百年前までの狼もそれを愛惜した数年前までの三橋敏雄の存在も、並列的に「はるかなり」とすることで、掲句の作者はいま過ぎつつある現在における存在もまた、たちまち「はるか」遠くに沈んでいくのだと言っているのではなかろうか。そういうことは離れても、掲句はさながら話に聞く寒い夜の狼の遠吠えのように,細く寂しげな余韻を残す。『遊歩』(2005)所収。(清水哲男)




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