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2006ソスN1ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 3112006

 雪女郎です口中に角砂糖

                           鳥居真里子

語は「雪女郎」で冬、「雪女」「雪鬼」などとも。「雪女郎です」と名乗ってはいるけれど、この句のなかに雪女郎は存在しない。名乗っているのは、他ならぬ句の作者自身だからだ。気まぐれに「角砂糖」を口に含んだときに、ふっと砂糖の白から雪を連想し、雪から雪女郎にイメージが飛んだ。そして雪女郎が口を利くとすれば、角砂糖ならぬ雪を口中に含んでいて、おそらくはこんな声になるのだろうと自演してみた。口中の角砂糖がまだほとんど溶けない間に「雪女郎です」と発音すれば、「ゆひひょろーれす」のような、しまりの悪い感じになるだろうな。などと想像して、思わず笑ってしまったが、しかし茶目っ気からとはいえ、雪女郎の口の利き方まで想像する人はあまりいないのではなかろうか。好奇心旺盛な人ならではの一句だと思った。雪女郎はむろん想像上の人物、というか妖怪の類だから、特定のイメージはない。したがって特定の声もないわけで、各人が勝手に想像すればよいのではあるが、掲句を読んでしまった私などは、これからはこの句を離れた声を想像することは難しくなりそうだ。「しまりの悪い感じ」の声と言ったけれど、逆にきちんと発音された声よりも、実際に聞かされたなら怖さは倍するような気がする。歳時記の分類では、大昔から「雪女郎」は「天文」の項に入れられてきた。つまり、雪女郎は「雪」そのものだとか「雪晴」や「風花」などと同列の自然現象の一つなのだ。自然現象のなかで最も不気味なのは、人智の及ばぬ不明瞭さ、不明晰さであることは言うまでもないだろう。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)


January 3012006

 ひと口を残すおかはり春隣

                           麻里伊

語は「春隣(はるとなり)」で冬、「春近し」に分類。これも季語の「春待つ」に比べ、客観的な表現である。「おかはり」のときに「ひと口を残す」作法は、食事に招いてくれた主人への気配りに発しているそうだ。招いた側は、客の茶碗が空っぽになる前におかわりをうながすのが礼儀だから、その気遣いを軽減するために客のほうが気をきかし、「ひと口」残した茶碗でおかわりを頼むというわけである。残すのは「縁が切れないように」願う気持ちからだという説もある。いずれにしても掲句は、招いた主人の側からの発想だろう。この作法を心得た客の気配りの暖かさに、実際にも春はそこまで来ているのだが、心理的にもごく自然に春近しと思えたのである。食事の作法をモチーフにした句は、珍しいといえば珍しい。私がこの「おかはり」の仕方を知ったのは、たぶん大学生になってからのことだったと思う。だとすれば京都で覚えたことになるのだが、いつどこで誰に教えられたのかは思い出せない。我が家には、そうした作法というか風習はなかった。おかわりの前には、逆に一粒も残さず食べるのが普通だった。だから、この作法を習って実践しはじめたころには、なんとなく抵抗があった。どうしても食べ散らかしたままの汚い茶碗を差し出す気分がして、恥ずかしいような心持ちが先に立ったからだった。このとき同時に、ご飯のおかわりは三杯まで、汁物のおかわりは厳禁とも習った。が、こちらのほうのマナーは一度も気にすることなく今日まで過ごしてきた。若い頃でも、ご飯のおかわりは精々が一杯。性来の少食のゆえである。「俳句αあるふぁ」(2006年2-3月号)所載。(清水哲男)


January 2912006

 凍つる日の書架上段に詩集あり

                           藤村真理

語は「凍つ(凍る)」で冬。自宅の「書架」ではあるまい。「凍(い)つる日」を実感しているのだから、外出時でのことだ。図書館でもなく、書店の書架だと思う。凍てつく表から暖かい書店に入り、ようやく人心地がついたところだろう。まずはいつものように関心のある本の多い書架を眺め、ついでというよりも、身体が暖まってきた心のゆとりから、普段はあまり注意して見ることのない「上段」を見渡したところ、そこに立派な「詩集」が置いてあった。著名詩人の全詩集のような書物だろうか。高価そうな本だし、手を伸ばしても届きそうもない上のほうの棚のことだし、中味を見ることはしないのだけれど、その凛とした存在感が表の寒さと呼応しあっているように感じられた。このときに「上段」とは「極北」に近い。著者が孤高の詩人であれば、なおさらである。ぶっちゃけた話をすれば、詩集が上段に置いてあるのは売れそうもないからなのだが、それを存在感の確かさと受け止め変えた作者の心根を、詩の一愛好者としては嬉しく思う。ただ常識から言うと、一般の人にとって、詩集は遠い存在だ。せっかく字が読めるのに、生涯一冊の詩集も読まずに過ごす人のほうが圧倒的に多いだろう。「上段」どころてはなく、いや「冗談」ではなく、多くの人々にとっての詩集は、「極北」よりもさらに遠くに感じられているのではあるまいか。「俳句研究」(2006年1月号)所載。(清水哲男)




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